事象
水谷一

アート2009年11月11日

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投稿者:Art in kamiyama

『事象』 2009年10月中旬-11月

九月八日に描画を始めて、10月29日に終えた。その期間中の3日間はこの地におらず、鉛筆を握る事の出来ない状態だった為、事実上の作業日数は49日間となる。描画の終了日は展覧会開始の5日前であった。
実際の所、制作の中盤を過ぎてしばらく、予定内の完成が難しいのではないかと危惧していた進度であっただけに、展覧会まで5日間という有余を残して描画作業を終了出来た事は、我事ながら理解に苦しむ。確かに滞在の開始当初は、作業する体調の準備に難儀して、描画に飛び込む為の助走が幾度となく要され、作業場に居ながらにして、描画以外のあれやこれやで過ごす時間の量も多かったようにも思うが、それにしても。
描画を終えてからの5日間は、瞬きする間のごとく過ぎ去った。私は制作の現場であり、作品披露の会場でもある劇場・寄井座を、今一度、清掃した。掃除機で降り積もった塵や崩れた土壁、虫の死骸、そういった様々を取除き、モップをかける。玄関、一階客席、舞台、二階客席。水拭きで一度、乾拭きで一度。
[ちいおり]は徳島県東祖谷山村にある築三百年の茅葺き屋根の古民家である(NPO「ちいおりトラスト」ホームページより)。展覧会が開始して数日経った或る日に訪れたそこ[ちいおり]で、磨きに磨き上げられた松の床を見た。二つある囲炉裏の煙や煤の影響もあるのか、黒く、鬱陶しい程に艶やかに光る表面がそこにはあった。比較すると、私の清掃した寄井座の床は、とてもささやかである。[ちいおり]に訪れ、そう思った。ささやかで、あやうい。
[ちいおり]を訪れるその途中、中尾山高原という場所で自動車を降りて、しばらく歩いた。天気は悪くなかったが、風は冷たく、空気は重かった。大きな池があり、グラススキー場があり、トイレがあり、そして管理人不在の木屋平村民族資料館という施設がある。
この資料館では機械化される以前の、手作りの農機具や、生活用品が展示されていたが、真っ先に思い出されるのは、壁にぶら下がった一匹の狸の毛皮である。眼球が収まっていたはずの位置には、丁度、銀杏の大きさ・形状の穴が空いていて、壁から突き出た二本の釘に、その銀杏の二つの目(の穴)は引っ掛けられていて、狸はもの言わず、ぶら下がっていた。

ヤブ蚊や蛾やカメムシの侵入の勢いを緩和する事を目的に、制作を開始した当初、全ての窓に簡易的な網戸を取り付けていた。取り付けていたと言っても防水用ガムテープで窓枠やガラスに網を留めただけの代物であるが、充分役立ってくれたと思う。展覧会を前にして、それらを全て取除き、ガムテープの痕跡をシンナーで拭き取り、ガラス窓を絞った濡れ雑巾で拭き、作業用蛍光灯を撤去し、汲取式のトイレへ向かう閉まらないドアに電動鉋をかけて開閉を円滑にし、便器洗浄洗剤や芳香剤等の備品を配置した。舞台と一階客席の段差部分に貼られていた板材の抜け落ちの修繕は、些か骨が折れたが、かなりの冷風を押さえ込む事が出来たし、何よりずいぶんと場所の形状を眺めやすくした。
土を主原料として作られた寄井座建設当時の壁は、長きに渡って空家として放置されて来た経験からか、それとも土壁の辿る宿命からか、どの箇所がいつ崩れ落ちても一向に不思議ではない状態にある。実際かなりの部分が既に崩れていて、元来の状態を(かろうじて)維持する面積よりも、修繕の痕跡の方が全体を占める割合は大きい。
崩れて来る壁を押さえ込もうと板材が配され、それもまた老朽化進む現在の様は、台風の発生に備えたが、予想以上の規模の大きさに為す術もなく、敗れ去った証しとも見える。屋内に発生する台風?
縫製工場として使用されていた当時に設えられたという低い天井が、つい最近まで寄井座にはあったとの話を聞いた。何らかの理由により、劇場の高い天井は、縫製工場には不必要であったらしい。低い天井が必要であったと書くべきかも知れないが、わからない。ともあれ、その低い天井が設置されていた為に、現在は眺め仰ぐ事の出来る、劇場時代・昭和初期の色とりどりの天井広告は、KAIRの主催であるNPO法人グリーンバレーが再発見するまでの10年以上の間、鳴りを潜めていた。一階客席の空間はミシンが置かれ、舞台は布の裁断の為の場所として使用されていたらしい。
現在の寄井座室内の様子から推察するに、その時代にあった低い天井より下部、つまり縫製工場として機能していた空間の壁は、いかにも安価な化粧板で覆われている。土壁の上から打ち付けられた板材の、さらに上から化粧板が貼られているのである。
黄土色の木目のプリントされた薄手の化粧板もまた、湿気で歪み、たわみ、剥がれて、所々に荒々しい穴が開けられ、廃墟色甚だしい。私はその痛々しい穴々を、前例に習ったわけではないが、やはり、その場凌ぎ的に板を貼って隠し、ブヨブヨとブカブカと波打ち剥がれた一箇所一箇所を小鋲で押さえつけていった。
押さえつけると何かがざわついた。最初は幻聴と思った。一人空洞に居ると現実の音が現実の音とにわかに信じられぬ事が度々ある。しかしそのざわつきは押さえる手の力加減に対して一様ではなく、確かにそのじめっとした薄い板一枚隔てた闇に、何者かが潜んでいる事がわかった。ざわつきは、複数の重なり合う、音というよりも悪寒に近似した厚みを持って、私の指先から二の腕、二の腕から胸元辺りに鈍く響いた。その響きが途切れた瞬間、一匹のヤモリが化粧板の縁から顔を出した。目は白く、表情は読めない。一匹、二匹、三匹のヤモリが顔を出し、飛び出して、いずれも床を、ぺぺぺぺぺぺぺと這って消えた。

寄井座の北側の窓から時折、草むらを歩く猫の姿を見かけた。南側の広場でもまた、猫に出くわす事があった。聞けばこの辺りでは猫が捨てられる事が多いらしい。現在では、どうやら三匹の猫が棲息しているらしかった。姿は見えないが盛り唸った声も幾度か聞いた夜の記憶もある。
三匹のうち一匹は子猫だった。どの猫も結局、私がここに通う間に、なつく事はなかったが、その子猫は声をかけると振り向いた。振り向いて、興味がある素振りだけして、常に決まって私の何かにピクッと身を震わせて逃げていった。
展覧会3日目の木曜日。晴れたその日の二時過ぎだったと思う。何が目的であったか覚えていないが、私は寄井座に立ち寄り、そして寄井座を出た。自動車のエンジンをかけて発進させるかさせないかのその刹那、すぐ前方、10メートルあまり先に灰色の塊が見えた。その色はアスファルトに近いが、ほんの少し黒かった。
私はシャベルと塵取りをKAIRの事務所で借り、クラフト紙を持って、自動車を再びいつもの駐車場所に停め、その灰色の塊の傍らにしゃがみ込んだ。きれいな亡骸であった。あの子猫だった。頭から血が流れたらしかったが、道路に溜まった少量の血は出続けているわけではなく、鮮やかで滑らかな薔薇の色をしていた。子猫は脱糞していた。
私は、まだ硬直を始めて間もないらしい、たおやかな背中を撫で、その小さな身体をゆっくりと両手で抱え、褐色のクラフト紙で包み込んだ。クラフト紙とは、クラフトパルプを原料とする、セメント袋や、肥料袋、封筒等に使用される紙である。
埋葬する為に、私は子猫を寄井座の裏手(北側)に連れて行った。しつこく根を張る雑草の多い土には大小の、とても硬い石がごりごりごろごろと混じっており、シャベルは幾度もカツンと音を立て、私の手に唐突な振動を伝えた。
私は直径50センチ、深さ50センチ程度の穴を掘った。穴を掘る間、不連続に、子猫を包んだクラフト紙は風に吹かれて私の注意を惹いた。

・・・サ・・・・・・・・・・・・・・・・パサ・・サ・・・・パサ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・サ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・サ・・・・・パササパサ・・・・ピサ・・・・・・・・・・・・・パサパササパサパチャ・・サ・・・・・・・・・・・・・・・・・・パサ・・・・・パサ・・・・・・・

 振り返るその度毎に私の目に映ったのは、子猫の薄い薄い乳白色の膜に覆われた黒く深い、明るくも暗くもない目の球と、クラフト紙に付着した鮮血が擦れて伸びた、その軌跡であった。気が付くと私は汗だくだった。
紙に包まれたまま、子猫は、私が掘り、手でならした穴の底にしなだれかかるように、身をふにゃりと沿わせた。私は少しずつ、穴と猫とクラフト紙との隙間を埋めるように土を注いでいった。注ぎかける土の量を少しずつ多くし、姿が完全に見えなくなった頃、私はこの子猫に名前をつける事を思いついた。

ある日の夕方、徳島県那賀郡那賀町、大釜の滝を訪れた。落差20メートル、滝壺の水深は15メートル、大蛇が棲むという伝説が残されている。山深い国道193号線沿い、手掘りであるというトンネルのすぐ側にあり、爽やかな景観に包まれて滝はある。自動車を停めて、滝の全景を眺める為に、傾斜の急な階段を滝壺に向かって一直線に絶壁を降りていく感覚は、先の見えない洞窟に足を踏み入れ行くような気持ちにさせた。
見上げた滝の落ち口は、いつだったか東京・新宿で見た、ARTE POVERA(1960年代後半のイタリアの先端的美術運動)を代表する美術作家の一人、ジュゼッペ・ペノーネの作品「爪と大理石」を私に思い出させた。荒々しく素材感を剥き出しにした大理石に、ガラスで出来た巨大な爪が食い込む野外彫刻である。大きく分厚い一枚の緩く湾曲したガラス板は、ヌメヌメとした浅い起伏、青緑色の濡れた表面を持っていた。
辺りは次第に暗くなっていた。大釜の滝の水流と周囲の岩や木々の構成する景観は、どうにも作り物めいており、それは滝の前に立つ私自身が作り物である事を、私に知らせているように思わせた。


会場から作品を撤去したのは、展覧会が終わってから一週間以上を経てからとなった。会期終了から作品撤去までに日にちが空いた理由は一つではないが、天候への配慮があった。会場である寄井座は古い木造建築であり、気温や湿度等、気象の影響を受けやすく、紙を素材とした今回の私の作品もまた、そうだった。
展覧会中、雨が降る事は一度もなかったが、展示を終了してしばらくの間、降ったり止んだりの暗く不安定な日々が続いた。あからさまな湿気を、作品や会場が帯びたまま、梱包作業を行なうわけにもいかず、私はごく稀にある(それは確かにある)雨漏りを危惧して、作品の上に紙、その紙の上にビニールを敷いた。作品を撤去するまでのこの期間のある朝、大きなソファーベッドとタンスが、外部より持ち込まれていた。

水谷一
2009年度神山アーティスト・イン・レジデンス招聘作家
【神山アーティスト・イン・レジデンス2009】カタログ/実施報告書用テキストより

アーティスト・作品紹介
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