山中カメラ

2009年度 神山アーティスト・イン・レジデンス招聘作家
2009/9/1-2009/11/20

山中カメラ
1978年山口県生まれ。特殊写真家・パフォーマー。村上隆のGEISAI6にて「銀賞」受賞(2004)。自作の写真、映像、歌が融合した独特の「カメラショー」をライブ形式で展開。撮影行為自体をパフォーマンス作品とした「一人合唱」でNHKデジタルスタジアム、デジタルアートフェスティバル東京(2007)出演。近年では、「現代音頭作曲家」として、日本各地や海外に滞在し、町の人々と交流しながら感じたこと、感動したことをもとに現代音頭を制作。楽器を演奏してもらったり、歌を歌ってもらったりと、様々な人々を巻き込んだオリジナルの盆踊り大会を開催する活動を勢力的に行っている。
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制作中の様子

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スダチ音頭
Artist statement
講評
神山スダチ音頭 (KAIR2009)

 

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神山スダチ音頭

BONDANCE/KAMIYAMA-SUDACHI-ONDO

一番、
山の碧さが目にしみる
ここは徳島 神山の里
そんじょそこらの山じゃない
天尊降臨 神の山だよ

勇壮な棒搗きのリズム
鮮やかな七夕の光

季節に色付く山を見てる
輝いている

二番、
鮎喰の流れ清らかに
人の心も洗い流すよ
洗い流すは阿波踊り
人の悲しみ押し流してく

親切はお接待の文化
優しさは自然の豊かさ

笑顔に溢れる人に会える
輝いてる

三番、
スダチの季節やってくる
人と自然の恵みを受けて
私も神山(ここ)に生まれたい
こんな豊かな故郷(ふるさと)ならば

みんな君をまってるよ
たまに帰っておいでよ

未来に羽ばたく君を見てる
輝いてる

(山中カメラ、2009)

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すだち用コンテナを使ったステージ

流れ星が見える冬空の下でスダチ音頭

この文章の提出期限を過ぎているのですが、あまりにもたくさん書くべきことがあり、また私の稚拙な文章ではとてもすべて書き表すことはできず、数日間どうしたものかと思い悩んでいます。それほどまでに私は神山で、本当にたくさんのものを得たのです。神山の体験についてはここであれこれ書くよりも、神山での感動を素直に綴った「神山スダチ音頭」の歌詞がすべてを表しているので、そちらに代えさせて頂こうと思います。(歌詞参照)
まだ夏の暑さが残る9月から、神山の生活で得たインスピレーションをもとにすべてを制作し、初雪の降った11月にボンダンス大会を開催しました。曲名にある「スダチ」は神山特産の「すだち」と、鳥の「巣立ち」がかかっています。過疎化が叫ばれている神山町ですが、こんなに人々と自然が豊かな故郷で育って違う町に育って行き、また此処に帰って来れる子どもたちは幸せではないかと感じたので、過疎を肯定する意味で「スダチ」と名付けました。
音頭制作にあたり、歴史や伝統芸能のご教授、太鼓、三味線、トランペット、かけ声の録音などたくさんの方にご協力頂きました。また、ボンダンス大会の会場作りにおいても、神山(特に下分地区)の皆さん総出で、400個のコンテナ集めから、雨の降るなかの設置作業など、共同制作と言って良いほど大きな手助けをして頂き、本当に良いものが出来上がったと思っています。作品だけでなく、日々の生活の中で神山のあたたかい人々の心に触れられた事が私の人生において何よりの宝になりました。神山のすべてのみなさんに感謝します。
「また帰ってきます」

 

+++講評

今回、「瀬戸内アーティスト・イン・レジデンス」の参加アーティストとして山口県出身の山中カメラが、KAIRの一員になった。山中は、美術のフィールドでは異色ともいえる存在である。美術家というより作曲家といったほうが、容易に理解されるはずである。実際アーティスト自身が、自称として「現代音楽作曲家」と使っている肩書きが、最近では耳慣れてきて、彼自身の生業ともいえるようにフィットしてきたように思う。山中は、地域に滞在しながら地元のオリジナル音頭を制作してきた。これまで「取手マルトノ音頭」や「別府最適温度」や韓国のレジデンスで作詞、作曲、振付、歌唱までオールマイティにこなして制作してきたのである。
今回、作家は滞在中に地元の歴史や風土を学びながら新しい地域の音頭を創作した。その「神山スダチ音頭」は、下分地区の住民が、全面的に協力して演奏から掛声、踊りの練習まで率先して関わって完成されたものである。この完成を心から喜び、自分たちの音頭のために、KAIRの報告展示期間中に冬の盆踊りが開催された。下分小学校跡地では、夏祭り会場のように七夕飾りが施され、照明器具が装着された。216個(108の2倍の数字)のすだち用のプラスティック・コンテナが校庭の中央にやぐらとして高く組立てられた。雪が舞い散る激寒の夜だったにも関わらず、300人近い人々が集まり、大きな輪を描いて大盆踊大会が繰り広げられたことは感動的だった。長いKAIRのプログラムのなかでも、これほどまでに地域のなかで作家が、多くの住民とコミュニケーションをしながら作品を制作したことは初めてのことであった。これまでKAIRに関わりの無かった町の人々が踊り手や演奏家として関わることで、山中の音頭は、作家個人の楽曲から町の必需品となって、オリジナル音頭として巣立っていったのである。アートが、人々を熱狂させ、感動を呼ぶ大きな存在であることを、住民の一人ひとりが口説く必要も無く合点した瞬間であった。その現場に立ち会った作家やKAIRの関係者は、大きな期待と今後の活動のエネルギーを得たはずである。

嘉藤笑子(武蔵野美術大学非常勤講師)