特集

Vol.03

7つの地区から辿る
神山のいま、むかし

各地区に残る史料を手がかりに、
長く住む方々とかつての様子を辿ります。
浮かび上がってくるまちの姿とは?

第4話

阿川地区、二ノ宮の阿川公民館にて

2023年3月31日 公開

隣町の石井町から神山町へと続く県道20号線(通称「北岸」、鮎喰川を挟んで2本通っている県道の北側)を走ると、賑やかなかかし飾りに出会います。バスの停留所でもある「本名(ほんみょう)」から西に進むと段々畑に梅の花が咲く、梅の里の風景が眼前に広がります。

今回は二ノ宮にお住いの多田正治さん、二宮八幡神社の宮司・多田清文さん、少し標高の高い宇度木にお住まいの阿部真則さんの3名にお話を伺いました。清文さんが持ってきてくださった古いお写真などの資料に「これは○○年じゃな」と即時反応する正治さんや阿部さん。和気あいあいとした雰囲気の中で取材会は始まりました。


多田正治さん|昭和6年生まれ(以下、正治)
わしは二ノ宮で商店をしています。扱っているのは食料品や日用品、雑貨で、お店の創業は明治37年。お店を引き継いでからはもう70年になります。LPガスの販売を始めてから、60年。うちが、ここいらのお店では一番古いんちゃうかな。二ノ宮にある他のお店は、大正の頃に出来たものが多いように思います。

1931年に生まれて、今年92歳になります。気は若いんやけどな。元気の秘訣か?お店をやっているから、賞味期限切れ近いものを食べているから体が強くなったんかな。あとはもう酒を飲むだけじゃ。


阿部真則さん|昭和21年生まれ(以下、阿部)
宇度木で生まれて、今も住んでおります。家は集落から少し離れて、ポツンとあるような家です。徳島農業高校(城西高校神山校の前身)を卒業してから、アルミサッシのお店を営んでいました。家は50年と続く農家です。思い返すと2、3年離れたくらいでずっと阿川にいますね。


多田清文さん|昭和24年生まれ(以下、清文)
出身は二ノ宮で、学校の教員をしていました。退職したのちは、二ノ宮八幡神社の23代目宮司を務めています。取材の話を聞いてから「阿川が他の地区と違うところはなんだろうか」と『阿野村史』を開いて考えたり、写真やらを整理して昔を思い出しながら来ました。あんまり正確なことは言えんかもしれないけれど、よろしくお願いします。


戦中の学校生活と大衆の娯楽

正治「奉安殿」って言ってもわからんわな?全国の小中学校、大学に設置されていた、御真影という天皇陛下の写真を入れてある建物。わしはそこの警衛警護を任されて、お守りするのが役目じゃった。日露戦争で活躍し、金殊勲賞をいただいた方のお写真入れたりね。

「校門入れば奉安殿。ひだりにむいて最敬礼、右に向いて二宮金次郎さんに一礼し、教室に入りましょう」っていうのが決まり事。そういう教育をされとったんじゃ。

廣野校奉安殿建設中の写真(参考)昭和10年 写真提供_山下写真館

清文子ども時代のことで記憶に残っているのは、やっぱり娯楽かな。芝居や学校で上映される映画。なかでも、悪者を退治する瞬間は、手をたたいて見たりする。今のように個人がテレビやインターネットを見るような感じではなく、「みんなで同じものをみる」という感じで、喜怒哀楽を隠さず出していたね。

正治素人芝居っちゅうんもあったな。各土地でな、みんなが役者になる。宇度木にもあったな、みなみうら(南部地区を指す地名、具体的には長代、屋那瀬、川平、府中、宮分など)にも代次にも、阿川には素人芝居が4つくらいあった。「きそ」っていう矢倉を組んで、きそ代ってお金をみんなからもらう。お金のようけある人からは金一封を包んでもらったりな。「阿川、にのみや、誰々よりごひいきあって、これもはらまでくださる」って口上で紹介したりしてな。

阿部宇度木にもあったらしいね。僕も見たことはないけれど、その存在は聞いたことある。浄瑠璃が多かったらしいね、いわゆる大衆芸能。

あとはな、11月25日やったと思うけど、二宮八幡神社の横の馬場のところで村相撲があったんよ。その日は学校の授業も半日で終わって、ようけ人が来よって。大人の部とこどもの部に分かれてな。

清文僕も小学生の時に出たのを覚えてます。小さかったけどわりと強くて、一つ上の子に勝ってうれしかったですよ。

正治各学校に相撲場があってな。阿川の相撲開きには東京相撲の神風正一(かみかぜ しょういち)っていう力士が土俵入りしてな、盛大にやったわ。昔は11月25日頃に、芋を掘って麦を蒔く習慣があったんじゃ。そうやって畑の仕事が終わるころに相撲をしよった。


昭和40年頃の二宮神社入口の様子。神社の前にある案内図を子供たちが指差している。(写真提供_森嘉明)

牛馬を祭る二宮八幡神社のお祭り風景

正治明治40年ころに県道が出来る前は、学校がうちのお店の真ん前、神社の横あたりにあってね。そん時には、うちのお店ではお酒や衣類なんかも扱いよったで。今では、あんまりお店もなくなってしまったけれど、活気があったころはこの通りで日用品から大体のものは買うことができた。


昭和30年代の二ノ宮・本名の様子(『神山町史』上巻 P686より)

うちは鴨島にある「鈴木商店」という店から商品を仕入れて、明治のころは馬で運んで来ていました。今は道がないようなところに本街道があって、そこを通ってな。それまでは二ノ宮から鴨島に抜ける道があったからそこから持ってきてくれよった。

阿部もともと店はようけあったけれど、お祭りのときなんかも的屋さんがずらっと並んでいたね。

正治そう、多かった時には100軒は来よったな。露天商を泊めてあげたこともある。人が多かったからスリがようあって、一度盗られた財布が田んぼの中にようけ落ちとって、警察と現場検証で「中身抜かれとるなー」って一緒に見たこともある。

阿部二宮八幡神社は馬の神様の神社だから、昔は、遠くから馬をつれてお参りに来る人もいたね。美郷や勝浦から馬車引きが来て、境内前にずらっと並んでいる光景がありました。勝浦からくる人は、阿川まで来て、帰るんは晩になるやろ。そしたら言うんよ、「(大変だから)もう来年は行かん」って。でもまた翌年には来よったな。(笑)

正治前に神領の競りにかけられとった牛を阿南まで運んだことがあったけど、そこにおった牛や馬に二宮八幡神社のお札がかけられとったんじゃ。大麻・津乃峰・二ノ宮と並ぶくらい徳島県下でも大きなお祭りだったから遠方からの参拝者も多かったな。

阿部ほれとな、お祭りがあるのは10月31日、この日は雨が降らんのよ。朝降っとってもな、だんじりが出たら、雨が止むんよ。そんな特異な日になっている。

清文ほんとかうそか、言い伝えがあって。二宮八幡神社でお祭りのときにどんどんと太鼓を打ち鳴らすと左右内のほうで飼っている馬が反応して、リズムをとって、神社のほうに迷わず歩こうとするとか。昔は賑やかだったんだろうね。

牛を飼っている家が多かったし、人間の次に牛や馬っていうくらい大切にされていたね。今は牛や馬がほとんどいない生活になったから、地域の人たちと作る地域のお祭りとなっていますね。

昭和30年頃  阿川の祭りといえば思い浮かぶ「傘踊り」を披露した子どもたち(写真提供  阿川傘踊り保存会 相原利章会長)


山の恩恵を受けた暮らし

正治阿川では松炭を作っている職人が30人くらいおってな、わしも何年か買うとった。白炭、黒炭っちゅうんがあってな。白炭っちゅうんは高温で真っ赤に燃やして作る炭で、黒炭はちょっと燃えきる前に止めて出すんじゃ。

阿部樫の木とかの雑木林の中に窯を作ってな。木がなくなると窯を潰して、また次の山というように点々と。

正治木炭自動車が走りよった時代は、よくガスがでる松炭は重宝されとった。小さい頃はバスも燃料が炭だった。寒い日はエンジンがかからないからみんなで押して。坂がちなところはよう止まるんよ。

雑木を切って炭を焼いた山には、代わりにスギやヒノキを植えて植林する。当時は木が高かったからどんどん植えてたね。

清文山の木がなかったらうちは進学させてくれなかったかも。山ってそのくらい価値があったし、それが家ごとの価値となり、結婚などにも影響していたからね。今となっては、きつい話のように聞こえるけれど。

阿部そう、差別的に聞こえて良くない言葉づかいだけれど、「あそこは山を持っている大家(おおや)やけん。」とか「ここは小家(こいえ)や」と言ったりな。昔は山や田畑を基準に資産価値を値踏みできた。山を持っていることは、生活に余裕を生んでくれることだったね。

広野地区での炭焼きの風景(写真提供_山下写真館)

広石鉱山周辺の町並み

清文阿川の特徴といったら、鉱山もありますね。別子銅山や持部銅山、広石鉱山とが一連にあって、それぞれの鉱脈が同じ。


広石鉱山の様子(年代不明)

正治広石鉱山はうちの親父も行っきょったんじゃ。当時は、軍事産業でぇ。ほしたら、お菓子とかの配給が優先的にされてな。自分ら子どもが行ったら、分けてくれるんよ。あと、倉庫を利用した劇場があって、月に一回上映しよった。晩になるとみんなで手を引き合って毎月行ってたわ。そうしないと暗くておそろしかったからな。昭和23年3月に閉山するまでの話しじゃ。(資料では昭和16年となっているが、「昭和23年ごろまでやってたんじゃない」と正治さん)

阿部棟割り長屋っていう形状で、建物がずらっと連なって。最近まで残ってたんだけどな。谷の両側に建っていたね。

正治公衆浴場なんかもあったんじゃ。川の上の平たいところで、硯っていう鉱山のちりを洗い流していた。ボイラーで湯を沸かして、たしか15人くらいは入れる大きな浴槽じゃった。

清文鉱山の関係で、谷川には魚などの生き物が少ない。成分が影響しとるんやろうね、そんな環境も鉱山特有だね。


昭和10年代の広石谷流域の地図(『神山町史 下巻』P667より)


産業視点で見る「梅の里」のいま

正治梅が良かった時代は、梅とたまごとな、一つがおんなじ値段じゃった。

阿部例としてはな、昭和42、3年くらいには、梅の10kgが1万7千円。そのときの私の給料1か月分よりも多かった。宇度木で梅を作った人がおって、売ってみたら良い値になったというのが始まり。土地柄、田んぼも作れないところだから、田んぼが出来ない人が梅を作りだしたらしい。

清文剪定も草刈りも大変になったね。きっと農家も高齢化していて、経費もかかるから日当としたらかなり低い。健康のためにやっているような。私なんかは鍛え方が足りないってよく言われる。

阿部蚕やタバコが産業だった時代から、梅がそれに変わって昭和35年くらい昭和40年くらいからがピークになってきたんよ、でもそのあと和歌山県のみなべの梅も盛んになってきていて、市場でかち合うようになった。それまでは徳島から阪神のほうに流通していたけれど、流れが変わってきたよね。

梅の栽培を始めたころも、加工の販路がなかったから、「梅の将来性はありません」っていうのが定石だった。桃の栽培方法を参考に学んでいったね。

貧しさのなかにあった地域の活況

清文こうやって思い返してみると、生活が急激に変わりすぎたことを感じるね。今では道路もきれいになって便利が良くなっているけれど、最近では「それでよかったのかな?」って思うこともある。

この取材の話しを聞いてから身の回りのものを整理していて、阿部さんから以前貰った手紙を読み返していてね。

”われわれの子ども時代とは、戦後の混乱から抜け出したころ。鉛筆の小さくなるまで、大切に使っていた。遊び道具は全て手作り。貧しい中にも、たくましくハングリーに生きていた。貧しさを克服した今日、周りには人が居なくなってしまった。”

阿部さんにもらったこの手紙はずっと大切にしていて、お墓にまでもっていきたいと思ってます。

阿部それは、娘が清文さんに学校の担任でお世話になったときに宛てた手紙やね。確かに子どものときは貧しかったけれど、成長しよう、幸せになろうという気風があった。今はそんな気持ちは少ないかも。当時は貧しいからこそ、助け合っていた。豊かになってよかったのか、貧しい頃のほうが良かったのか、よくわからなくなってきたな。


次回は、広野地区のお話を伺います。石井町や徳島市に隣接し、山と町をつなぐ広野では、どのような人々の暮らしがあったのでしょうか。
 

参考資料
『神山町誌 上巻・下巻』(平成17年3月 神山町発行)
『阿野村史』(昭和33年3月31日 川内義計発行)
『百年の歩み(阿川小学校百年史)』(昭和49年11月1日 創立百年記念事業推進委員会発行)

文:駒形良介
制作協力:高橋啓
古写真データ提供:小松崎剛
企画・制作:神山つなぐ公社