寄井と寄井座 (一)

アート2008年5月31日

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投稿者:稲飯 幸生

-地域が育んだ劇場-
神山町文化財保護審議会長 稲飯幸生

はじめに

神山町には寄井座という人形浄瑠璃の一座(上村都太夫座)があるが、映画・演劇を上映・上演する劇場の寄井座もある。平成19年の10月、国民文化祭の絵画展示場として使用された場所である。そこには彩色豊かな天井広告が今も残っていて、地域の人々の寄井座に対する愛着がしのばれるものがある。それとともに商工業者・個人の天井広告によって寄井座のできた昭和初期の神山の人々の生活や産業、大きく言えば文化が想定されると思われる。

現在、所有者である医師佐々木真人氏から寄井座の管理を任されているのはNPO法人グリーンバレー(大南信也理事長)で、その協力を得て天井広告の調査をし、寄井という地域の変遷についても資料を分析した。

寄井座の天井広告。

寄井の地名

寄井座のある寄井という土地は神山町でももっとも人口の密集しているところで、山間地域にはめずらしく町筋を形成している場所であり、広告にもあるが、「寄井町」と呼ぶ人もあるくらいである。
ただ、寄井という地名は公簿に記載された正式なものでなく人々の呼び名であり通称である。正式には神山町神領字野間と字北の一部が合わさった地域で、その範囲もはっきりしていない。
寄井の地名の語源としては、おいしい清水のでる井戸がありそこへ大勢の人が集まって住むようになったので、それが地名になったという言い伝えがあり、現在も数カ所の井戸が残っている。

寄井での阿波踊りの様子。

はじめて文書にでてくる寄井

この地域を寄井と呼ばれ出したのはいつ頃からであろうか。江戸時代の終わりの頃には寄井の地名があったようで、上分の庄屋の粟飯原庄太夫の日暦(日記)に次のような記事がある。

天保14年閏9月29日(1843)の項に、 「来月(十月)二日ニ寄井ニ人形芝居有之ニ付、来候様申越候。座本西川京太夫来ル。酒指出候」とある。

寄井の親類に人形浄瑠璃に招かれた、ということで座元の西川京太夫が上分の庄屋である庄太夫の家に挨拶に来たので酒を出してもてなしということである。西川京太夫は西麻植(吉野川市鴨島町)の人で、峠を越えて神山へ人形芝居をするために度々に来ている。

— 続く

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稲飯 幸生

神山町文化財保護審議会長。

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コメント一覧

  • 阿波が、今よりも人形浄瑠璃が盛んだった頃に、タイムとリップをして、観てみたいと思います。 きっと、観客にとっては大事な娯楽でもあり、伝統芸能でもあり、とても場が賑わっていた事でしょう。 私の田舎の大地谷の笠木という山の上(現在の神山森林公園の近く)にまで、人形浄瑠璃の一座が来ていたと、大叔母に聞いています。 又、人形浄瑠璃ではありませんが、お芝居の一座も広野の川口地区(雨返し)の八幡神社に来たことがあり、家族皆で、楽しみに見に行ったと、これも又、大地で育った大叔母の話です。 興味深いお話ですね。

    2009年3月12日 11:24 AM | サスケ

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