
「まちの外で生きてます」#23 小川裕子さん
なんでも2025年5月15日
〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和、神山町出身の4名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、徳島市で働いていたり。
「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。
紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。
町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第二十三回は、神領出身で今は東京で暮らす小川裕子さん(36歳)に話を聞きました。
―幼少期を過ごした、神山での思い出を教えてください。
小川 神領の小野出身です。一個下には妹がいますが、実家の近くに同級生はゼロで、各学年一人ずつくらいしかいませんでした。幼稚園のころなどは、登下校で3キロ歩いていましたね。子どもなのにすごいですよね。たまに車に乗せてもらえるのがめっちゃ嬉しかったくらい、歩くのが嫌すぎました(笑)。神領小学校に入学。行きは集団登校だけど、帰りはバラバラ。歩くのが嫌だったので、小学校三年生のときにバレー部に入りました(笑)。夜の7時くらいまで練習になるため、車で迎えに来てもらえます。当時の同級生は、24人くらいで男女半々。結構仲良かったと思います。仲の良かった女の子も皆バレーをしていました。夏には、皆と川でバーベキューをしたりもしましたね。スポーツ少年団も思い出深い。小野は上角と一緒で結構強かったこと、覚えています。
(写真/神領幼稚園の発表会での一枚)
(写真/小学校三年生で始めたバレーボールは、高校生まで続けた。ブロックしているのが小川さん)
小川 小学生の時、トーテムポールをつくったんです。図工の授業で、海外からアーティストの先生が来てくれて一緒につくりました。それで中に手紙を入れようということになり、未来の自分へ宛てた手紙を入れたのですが、そこに「大人になったら、お台場でヒールを履いて、広告の仕事している」って書いていました。その時はまだウェブは主流ではなかったので、雑誌やテレビの広告。ヒールを履いてカツカツと歩いているイメージでした。絶対神山から出たい!って思っていたんですよね(笑)。神山は良いところもあるけど、当時はコンビニもなかったし、物理的に何においても遠いっていうのがあったので。今まさに東京で化粧品の広告の仕事をしているのですが、当時から美容系に興味がありました。きっかけは母。母は公務員で給食をつくる仕事をしているため、普段はお化粧もしないし着飾ったりしないけど、参観日の時にはお洒落をしてきてくれます。嬉しい反面、普段しないのでちょっと「ん?」と思うこともあったりして。大きくなったら私がやってあげれば良いんだって思い雑誌とかを見るようになりました。そのなかで広告に出合い、これを仕事にしたいと決めました。
―中学、高校、大学とどんな学生生活を送っていましたか?
小川 神山中学校では2クラスになりましたが、神領小学校出身の子が多いので、雰囲気自体はそんなに大きく変わりませんでした。部活はバレー部と駅伝部に。バレーは好きだけど、駅伝はどうサボるかということを常に考えていました(笑)。立志式のことはあまり覚えていませんが、中学校の時は将来についてそこまで遠くのことを考えていなかったですね。でも、大学は東京に行こうと思っていました。
(写真/神山中学ではバレーと駅伝を兼部。写真は駅伝部のメンバーと)
小川 高校に進学する際、ちょうど私たちの学年で総合選抜制度(総選)がなくなりました。でも総選に入っていた高校だったら良いかなというのと、バレー部で一緒だった好きな先輩がいたので城ノ内高校一択で受けました。徳島寮に入ることが決まっていて、寮から近いというのも決め手の一つ。少し親元から離れたいみたいな気持ちもあったかな(笑)。寮には高校の同級生が三人いて、城ノ内の先輩もいたため、一緒に勉強ができたり先輩に教えてもらえたので、それはすごく良かったです。神山にはあんまり帰っていなかったですね、半年に一回くらい。でも母がご飯をつくってよく来てくれていました。高校でもバレーもしていたし、栄養面も考えて、週一回くらいいろいろと持ってきてくれていました。
小川 高校生活もすごく楽しかった。特に文化祭や体育祭は楽しく、そこに力を注ぐ三年間でした(笑)。卒業後の進路を選ぶ時は少し適当でしたね(笑)。当初は、青山学院大学に行こうと思っていましたが、仕事で東京行くと決めていたので、大学は親も来やすい関西圏にしようと。指定校推薦で、京都の龍谷大学に決めました。龍谷大学では経済学部に。化粧品や広告の仕事をしたいという夢はずっとあったため、それに進める道があるなら何学部でも良いなとは思っていましたが、経済学部を選びました。
(写真/城ノ内高校では、文化祭や体育際などイベントも楽しんだ)
小川 京都での大学生活は、とにかくバイトをして旅行に行って……。あんまり勉強に力を入れていなかったのですが、三年生で卒業分の単位は全部とれていました(笑)。難しい授業は、テストの前に先生のところに通って勉強したりも。京都は、暑かったけど住みやすく良い街でした。徳島を離れ、やっと出られた!という反面、神山はやはり落ち着く場所ではありました。阿波踊りの時期はいつも帰っていましたよ。嫌いなわけではないのですが、こっちの生活はこっちでまた楽しいのです。
―初めての就職は、どうでしたか?
小川 卒業したら東京に行くことは決めていたので、就職はそこにつながれば何でも良いと思い、就職活動をしました。広告系以外にも一通り受けましたが、「東京」「化粧品」ということが第一希望。最初に入ったのは、大手化粧品メーカー。新宿の百貨店の配属になり美容部員として働き始めました。最初はめっちゃしんどかったです(笑)。販売の仕事が忙しいというのと、満員電車。関西にいたころより電車に乗る時間が長いうえに満員。仕事は立ち仕事で、満員電車でもみくちゃになって帰ってくる。初めのころは、週末には何もできずずっと寝ていましたね。三年半くらい働いて転職を考えるようになりました。やっぱり、商品の販売戦略を考えるマーケティング部で広告の仕事がしたかったのです。本来であれば、化粧品のマーケティングをしたかったのですが、二十代前半は店舗の仕事がほとんど。PCも使っていないし、このままだとマーケティングの仕事ができないのではと考えるように……。だったら業界は違っても、一旦、未経験でもマーケティング部門で雇ってくれる会社に行こうと思いました。美容業界は好きだったけれど、仕事の内容が違うので。そうして、金融会社のマーケティング部に転職。雑誌と交通の広告を年間でどのように動かしていくかを考える部署。少しだけテレビの広告を担当して、最後はウェブ広告も。良い経験でしたが、この会社は外部の広告代理店などに制作を依頼しているため、それだと自分のスキルが身につかないと思い、自社で運営しているところがないかを探して転職をしました。そこから、人材のウェブマーケティングで三年くらいキャリアを積んで、二年半前に今の会社に就職しました。化粧品のマーケティング。これが、私がしたかったことだと思っています。
(写真/東京での初めての就職先では、美容部員として活躍)
(写真/新宿の百貨店で働いていたころ仲間たちと。毎日忙しかった!)
(写真/現在はウェブマーケティングを担当。広告内で使用する素材も制作している)
小川 あまり大きな会社ではないので、やりたいことがすぐ進むところが面白いですね。広告業界は流れが速く、同じことを続けていてはだめ。SNSを見ていても化粧品の広告ってたくさん出てきますよね。同じものはすぐ飽きられてします。私は同じことをずっとすることが苦手な性格なので、時代やニーズに合わせて求められるものが変わっていくのは楽しいです。楽しい反面、考えるのはしんどい(笑)。バナーのキャッチコピーも考えたり、見せ方のアイデアが出てこないのは辛い。飽き性にはちょうど良いと思いますが、展開のスピードが速いのは大変な部分でもあります。落ち込んだときはジムで汗をかいてとにかく体を追い込んだり、本当に辛い時はシャワーを浴びながら号泣します(笑)。それで寝たらすっきりするので。上司や同僚に相談することもありますが、大体そういう時はもう私の中で答えが決まっている時ですね。
小川 今の会社は好きなのでいつまでいても良いけれど、会社員はどうしても拘束される時間があるので、次はどうしようか、漠然と考えているところです。でも東京にはいます(笑)! 東京での生活は気に入っているので。神山には年に1、2回帰るくらいが私にはちょうど良いですね。
―大人になって、町の外から神山をどう見ていますか?
小川 昔から思っていましたが、神山は新しいことや人が自然に入って来るところ。いろんな人来るなぁと思っていました。それに対しては私自身、ポジティブに捉えています。中学校を出るまではそうしたことが普通だと思っていたけれど、高校で友達に話しているとそれが特別だったと分かりました。たとえば、ALTの先生の存在も近くて、小さいころは何を言っているか分からなかったのですが、どうにかコミュニケーションをとったり同じ時間を過ごしたりするのは楽しかったし、ありがたかったなぁと思います。
小川 神山のことを知らない友達に説明するなら、「流れ星がめっちゃ綺麗なところ」と話します(笑)。30分くらい空を見ているといくつも見えますよね。そういうところは、これからも変わってほしくないと思います。
インタビュー・文:大南真理子
質問!まちの外で暮らす先輩にあれこれ聞いてみよう!(大学生)
Q:仕事をするなかで大切にしている視点はありますか?
小川 常に「なぜ?」の意識をもって、自分を疑うこと。これをすることで、さらに深い思考にもっていけていると思います。
Q:これからの目標や夢はありますか?
小川 中身も見た目も美しくハツラツとして、人に囲まれているおばあちゃんになること。そのために、仕事も人とのコミュニケーションも丁寧にしたいと思っています!
Q:学生時代にしておくと良いことはありますか?
小川 数年後、数十年後どうなっていたいか、なりたい姿をつくっておくこと。つまずいたときも、その選択がなりたい姿につながっているか答え合わせできるので。そのうえで、「今」を思いっきり楽しんでください!
Q:さまざまな業界のマーケティング職をされているなか、印象的だったエピソードはありますか?
小川 金融の会社でのCMの撮影が印象に残っています。普段は台本通りの内容でカットが進み、その流れが変わることはないのですが、俳優さんのアドリブで構成が急遽変更になったこと。撮影を進めるなかで「もっとこの方が伝わる」という思いが、俳優さんと撮影監督、会社の人間で一致した時のあの感覚は忘れられません。
Q:神山はどんな町だと思いますか?
小川 空気が澄んでいて、星が綺麗!そして、色んな意味で受け入れ態勢が整っている町だと思います。
Q:神山の人はどんな人が多かった印象ですか?
小川 良い意味でおせっかい!(笑)。人に興味がある人が多いと思います!
Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
編集部とりまとめ:大家孝文

やままち編集部
やままち編集部は、神山町出身の4名(大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)
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