「まちの外で生きてます」#25 水上勝哉さん

なんでも2025年9月15日

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投稿者:やままち編集部

〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和、神山町出身の4名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、徳島市で働いていたり。

「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。

紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。

町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第二十五回は、神領出身で今は徳島市で暮らす水上勝哉さん(32歳)に話を聞きました。

―記憶にある幼少期の神山での思い出を教えてください。
水上
 私は神領の寄井出身。小学校の時は少年野球をしたり、父の影響でスポ少の駅伝を走っていた思い出があります。野球は四年生くらいから始めたので、それ以降は休みの日も野球。それ以前の記憶はあまりないですね(笑)。あ、ウルトラマンの歌完コピするくらい好きだったっていうのは聞いています(笑)。夏は川で遊んでいました。農協のちょっと北の大埜地橋のあたりによく行っていたように思います。

水上 神領小学校に入学した時は最初10人ちょっとだったと思うのですが、小学校三年生か四年生のころに小学校が統合して、24、5人に。友達が増えるのは純粋に嬉しかったです。でも、小学校時代に熱中していたことといえばやっぱり野球。ポジションはピッチャーやサードで、本当に楽しかったです。小学校が統合した時に少年野球の人数増えたのでそれも嬉しかった。

(写真/地域の親子会の行事で宝塚ファミリーランドへ)

(写真/大好きだった少年野球で、ピッチャーとして県大会に出場)

―神山中学校ではどんな生活をしていましたか?
水上
 私が神山中学校(神中)に入った時、同級生は小学校よりちょっと増えて28人に。選べた部活は男子だと野球とサッカー、卓球。サッカーは私の代が卒業した後になくなったのかな。私は野球部に入部して冬は駅伝もしていました。野球のポジションはサードやセンター。そんなに肩が強いわけではなかったのですが(笑)。当時は石井が強くて、郡の大会で石井に負けたと思います。駅伝の方は県大会の2週間くらい前から練習する感じで、がっつりはしていなかったんですよ。大会の前の2週間限定みたいな。陸上もあって夏の大会には出ていたもののそこまで力を入れてなかったように思います。三年生の時は駅伝のキャプテンをしていて、徳島駅伝や神山駅伝も出ていました。駅伝の練習は冬なのですが、その時の唯一の楽しみは、先生がたまに買ってきてくれる肉まん(笑)。それがめっちゃ嬉しかったです。

(写真/中学校では野球部と駅伝部を兼部しつながら、大会に出場した)

水上 中学時代の好きな教科は、体育ですかね。神中はプールがないじゃないですか? 体育の授業の時に川で泳ぐって市内の人に言うと絶対みんなに驚かれますよね。あと思い出に残っているのは修学旅行。沖縄の首里城行ったり、ひめゆりの塔に行ったり……。それまでパイナップルが好きじゃなかったのですが、沖縄で食べたものがめちゃくちゃ美味しくて好きになりました。食べすぎて口の中が痺れるくらい(笑)。でも美味しかった。沖縄に行って良かったです(笑)。

―そのころ将来の夢はありましたか? 進路選びに影響しましたか?
水上
 中学時代は何になりたいとか分からなかったので、高校に行って考えようかなという感じでした。立志式でも将来の夢を作文に書いたと思うけれど覚えていなくて。多分ふんわりしたこと言ったのでしょう。

水上 そんな感じだったので、高校は徳島科学技術高校(科技高)に。私が入った時は徳島東工業高校で、二年生から統合して科技高になりました。推薦入学というわけではないのですが、大会に出ていたのを見ていてくれた先生がいて誘ってくれたので科技高にしました。そんなに走るのは好きじゃなかったんですけどね(笑)。実は高校に入ったらテニス部に入ろうかなと思っていたくらい(笑)。でも入学する前に二、三年生と一緒に陸上部の合宿があって、知らない間にそれにいくことになっていて(笑)、その流れで陸上部に入ることになりました。高校の陸上部には同級生が8、9人いて、当初私はタイムでいうと下から2、3番目。周りの人は年中練習しているような感じだったので、最初は全然ついていけなかったですね。

水上 徳島東工業高校は5、6コースあって、私が入った電子機械科(統合後は、機械技術類生産システムコース)は30人いかないくらいの人数でした。でも学校自体、神山時代と比べると人数がずいぶん増えて、同じ学年の人でも分からない人がいるなぁという感じ。祖母の家が安宅にあったため、一年生の時はそこから通っていました。学校が統合され校舎も北矢三町に移るという時には運良く祖母の家も引っ越しになって、二年生から名東から自転車で通っていました。

―強豪と言われる駅伝部に入ってどうでしたか?
水上
 特に一年生の時の生活は部活がメイン。6時くらいから朝練があって、着替えて授業を受けて終わったら着替えてまた練習。土日ももちろん練習があるので祖母の家が近くて良かったです(笑)。二年生の時には駅伝の全国大会に出場しました。県大会の際、4秒差で美馬商業高校に負けたのですが、その年が5年に一度の記念大会。四国大会で県1位を除いてトップになったら地区代表で出られるという枠があり、全国大会に出ることができました。京都の大会、私は5キロ走りました。入学当初は練習についていくことも大変でしたが、合宿や練習を通して、徐々に大会などでもタイムが出るようになり、2年生の夏に良いタイムが出て全国の大会に。初めての全国大会の緊張もあったりで、私も含めチーム全体が本来の力は発揮できなかったんじゃないかな。結果はあまり良いものではありませんでしたが、四国大会に勝って全国大会に進めたのは良い経験だったし、一番の思い出と言えるのではないでしょうか。スポーツ全般そうですが、一回では結果が出ないことが多い。仕事も一緒で、やはり継続は大事なのだと学びました。

(写真/徳島科学技術高校時代は駅伝。全国大会に出場するほどの記録を残した)

水上 結局、高校生の間にも自分が将来何をしたいのかは見つけられなかった。大学行かせてもらって、大学でも走るのを頑張ってみようかなと思い、大学に進学を決めました。大学のコーチが大会に出ていた際の走りを見ていてくれて声をかけてもらい、埼玉にある平成国際大学に入学。専攻は法学部で、初めて徳島から離れて部活の寮での生活が始まりました。大学は比較的田舎の方にあって、むしろ神山に似ている感じ。自分には逆に馴染みましたね。ただ、トレーニングは厳しかったです。距離も一気に増え練習量も増えるのでその分疲労は溜まっていたのかな。大学では怪我や体調不良があったりで思うようには走れませんでした。よく分からないけど走れないなぁという時期もありました。大学駅伝の最終の目標の一つは箱根駅伝出場だったりしますが、チームとしても難しかったし個人としても思うように結果が出ず歯痒さもありました。

水上 部活が中心だったため一般的な大学生活は送れず、門限もあったし飲酒もだめ。休みの日も練習があるので、日曜日に休みでも疲れて寝ていたり。大体引きこもっていました。なので、いわゆる大学生活みたいなものにちょっと憧れはあります(笑)。ただ、大学生活を通じて良い経験になったとは思います。大学に全国から集まっているので、いろんな人に出会えたことも良かった。

(写真/平成国際大学に進学。練習や合宿で四年間走り切った)

―今の仕事を始めるまでの経緯を教えてください。
水上
 卒業後、徳島に戻りたいと思っていたため、徳島の公務員の試験を受けることに。神山の役場には父がいたこともあり石井町役場を受けました。神山はいろいろな活動をしているので、神山で働くことも魅力的だとは思っていましたが……。
一度目はだめだったのですが、徳島市内の祖母の家にお世話になって一年間公務員の勉強をしました。もう一度石井町役場を受けて、今年で勤めて10年目になります。最初の3年は総務課でふるさと納税などを担当。その後、税務課で3年。今は危機管理課の防災部局という部署にいます。

水上 私が役場に入った時にはもうやっていなかったのですが、昔、移動図書館があったんです。2年目の時に、それを復活させたいという話がありふるさと納税でお金を募って復活させました。本が好きというわけではないのですが、復活させたい人の話や思いを聞いていると協力してあげたいなぁと思うようなったのです。形になって結果が見えたので、それは仕事をしていて一番楽しかったかもしれなかったですね。昨今は地震災害についてもいろいろと言われているので、今の部署でできるだけ災害に強い町づくりに貢献できたらと思います。

(写真/現在は石井町役場の防災部局に勤務。写真は石川県に災害派遣に行った際の一枚)

水上 今も、徳島駅伝やとくしまマラソンなどに出場して走ることは続けています。走っていると町の人が声をかけてくれたり、駅伝をしていた父を知ってくれて声をかけてくれる人もいます。それはありがたいですね。これまでは、自分のために走っているようなものでした。名西郡のキャプテンを10年くらいしているのですが、この歳になって自分のためというより応援してくれている人のために走ろうと思うようになりました。走れる限りはそれで恩返しをして、走れなくなったら指導者として恩返しができれば良いですね。

(写真/社会人になってからも続けている駅伝。とくしまマラソンでは10位になった)

―今の神山をどのように見ていますか?
水上
 神山を出てからも、神山はやっぱり良いなぁと思っていました。落ち着きますよね。昔はお店も遊ぶところもそんなになかったけど、神山にしかないものがあると思います。今の神山も良いと思います。いろいろな取り組みがされていますが、こうした町づくりも神山だからできることなのかなと思ったりして見ています。

 

 

インタビュー・文:大南真理子


質問!まちの外で暮らす先輩にあれこれ聞いてみよう!(中学生)

Q:学生時代の経験で今につながっていることは何ですか?
水上 昔は、よく緊張して人前で発表することなどが苦手でした。しかし、陸上競技で大きな舞台を経験したり、人前で発言する機会が多かったり、今では緊張も楽しめるようになりました。

Q:中学時代にやっておいた方が良いことはありますか?
水上 勉強も大事ですが、いろいろなことに恐れず挑戦してみてください。いろいろなことに挑戦し、視野を広げることで、今後進学や就職を考える際に絶対にプラスになります。

Q:駅伝で苦しいと思うとき、どのように自分を励ましていますか?
水上 「まだいける」と自分自身を鼓舞したり、応援してくれている人のことを思い出すと、もうひと踏ん張りできます。走ることはしんどいことの方が多いですが、しんどくなってからも案外動きます(笑)

Q:なぜ今の仕事を選んだのですか?
水上 徳島駅伝の事務局は役場の方がしてくれているのですが、お世話になっていくうちに、この人たちと一緒に仕事がしたい、お世話になった分恩返ししたいと思ったからです。

Q:仕事と駅伝の練習はどのように両立していますか?
水上 どれだけ効率よくできるか、ですかね。仕事にしても、駅伝の練習にしても効率が悪かったらその分時間が多くかかり身体も疲れるので、どのようにしたら効率よくできるか考えています。特に駅伝の練習は、スパッと終わらせることが多いので、他の人と比べて練習量などは少ないと思います(笑)。また、これは勉強にも言えることだと思うので、どのようにしたら効率よく勉強できるか考えてみてください。

 

Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
編集部とりまとめ:大家孝文 
 

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やままち編集部

やままち編集部は、神山町出身の4名(大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)

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