「まちの外で生きてます」#26 谷奈積さん

なんでも2025年11月15日

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投稿者:やままち編集部

〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和、神山町出身の4名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、徳島市で働いていたり。

「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。

紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。

町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第二十六回は、鬼籠野出身で今は徳島市で暮らす谷(旧姓:岩田)奈積さん(43歳)に話を聞きました。

―鬼籠野で過ごした幼少期のことを教えてください。
 同級生は10人。当時、鬼籠野小学校には分校もあって一ノ坂の子が入って10人でした。私が子どものころ、実家は鬼籠野のなかでも奥の方の一軒家だったんです。坂がきつくて学校帰りにいろんな荷物を持って帰るのがつらかった……。隣の子の家は1、2キロ離れていたので、小さいころは友達と遊ぶより弟や従兄弟と遊んだ記憶の方が強いかな。梅農家だったので畑仕事について行って、木登りするとか秘密基地つくるとか川遊びするとか。

(写真/家族が作業する梅畑で木に登る2才ころの谷さん)

 当時は田舎といってもまだ人が多くて、農作業してる人も多かった。だから、幼稚園の時、2㎞先の友達の家に一人で遊びに行ったりしていました。今だったら考えられないですよね、幼稚園の子が一人でその距離の山道を歩いていくの。道中もいろんな人が見守ってくれていたからできたのだと思います。あと、家で飼っていた犬がついて来てくれて、友達の家で遊んでいる間待っていてくれて帰る時にはまた一緒に帰ったり。「あの犬はよう守りをしたな」って家族に言われます。大変だったけど、今思えばその環境は良かったです。虫の声は聞こえるけど静かで、水も美味しかった。

(写真/小さいころ谷さんの遊び相手だった愛犬、まいこ。友達の家にいく時には同行してくれた)

(写真/鬼籠野には一ノ坂の分校もあって、併せて同級生は10人。みんな仲が良かった)

―小さいころはどんな夢をもっていましたか?
 一つめっちゃ覚えているのは、幼稚園の時にケーキ屋さんになっておばあちゃんにケーキを食べさせてあげたいって言ったこと。「ちゃあちゃん」って呼んで、おばあちゃん子だったんですよ。母は看護師。今のように育休がちゃんと取れた時代ではなかったので、母は早くに仕事に復帰していておばあちゃんと過ごす時間が長かったんです。おばあちゃんは「これからの時代は女の子も手に職をつけた方が良い」と言っていました。それもあって、身近な職業として看護師になりたいっていう夢は昔からありましたね。「お母さんと同じ病院で働きたい」みたいなことを何かに書いた記憶がある。

―中学時代の思い出を教えてください。
 神山中学校(神中)では同級生68人、2クラス。家が遠かったので、寮の選択肢しかありませんでしたね。遠いし地形の起伏も激しいので自転車で通うのは難しい。まだ先輩後輩の上下関係もちょっとあったりしてビビっていたけど、寮生活は楽しかったかな。覚えているのは、テレビの時間とか。テレビを見る時間が決まっていて、女子は当時流行っていた月9のドラマを楽しみにしていました。先輩の影から見るみたいな感じ。事件もありましたよ。夜は点呼があって消灯した後、友達の部屋に遊びに行って見つかって全員部屋の外に出さされたり(笑)。

(写真/今は高専の寮になっている神山中学校。教室のベランダで同級生と撮った一枚)

(写真/修学旅行ではフェリーで九州へ。一緒に写っているのは中学三年生で同じクラスだった現在の旦那さん)

谷 部活は、三年間バレー部に所属していました。寄せ集め(笑)の陸上部で高跳びをしたりもしました。小学校六年間ピアノをやっていて音楽が好きだったこともあり、二年生からは吹奏楽部に助っ人で参加。無謀にも初めてのピッコロを担当しました。期間限定で、夏には吹奏楽とバレーを兼部するんです。なので、夏休みはバレー、陸上、吹奏楽の練習、そしてスポーツ少年団も。あの時の運動量ってすごかった……! しかも夏休みは寮がないので自転車通学。吹奏楽は、三年生の時にパーカッションとして参加した、県大会で金賞をとり、四国大会に出場しました。

(写真/中学二年生の時、吹奏楽部に助っ人として参加。初めてピッコロを演奏した)

―立志式のことを覚えていますか?
 立志式の話を職場でしたら「何ですか?」って言われました。あれって神山だけの行事なんですね。あったことは覚えているけれど、将来の夢については何を言ったのだろう……。でも当時も夢は看護師だったと思います。看護師になるためには、いろいろな方法があります。高校を卒業して専門学校や大学に行くのか、高校から看護を学ぶのか。担任の桑田先生に話をしたら、高校の普通科に行っておけばほかの選択肢もできるからと、普通科を勧められました。それで徳島市の城南高校(城南)に進学することにしました。

 当時はまだ佐那河内のトンネルが抜けていなくて、神山から市内の高校に通う場合、下宿か、兄弟や家族とアパート借りて住むのが神山では一般的でした。そのため、高校に行くなら当然一人暮らし。親元を離れて自由にしたいと思っていました。でも城南を第一志望にしたのは、父に「生まれて12年は岩田の家におって、中学3年間は寮生活をした。高校で家を離れて暮らして、もし大学で県外に行くようなことになったら、お前はこの12年しか親と暮らしてないことになる。ほなけんこの3年は家から通え」と言われたから。これはめっちゃ覚えています。「その代わり原付バイクを買ってやる」とも。城南が総合選抜高校のなかで一番近いし、私の家は佐那河内寄りだったので、佐那河内を抜けて行くと城南が一番近いのです。「先生に言って最寄りのバス停まで原付で行って良いように許可を取ってやる。原付もお前の好きなん買ってやる。ほなけん家から通え」って。私もどうしてもほかに行きたいということもなかったので、「ほうやな」と思って城南にしました。今となっては父が言っていることも分かるし、それを言われなかったら高校で家を出ていたと思う。今思えばその言葉は良かったなぁ。

―高校生活はどうでしたか?
 高校に入って特に部活はしていなかったのですが、私が吹奏楽をしていたことを音楽の先生が知っていて、コンクールの直前に吹奏楽部に誘われてパーカッションで参加しました。城南はめっちゃ強くて練習もハード。ちょっと疲れたので一年で辞めましたが、二年生の時、バンドに誘ってもらってドラムを始めました。青春ですよね。体育祭の前夜祭で演奏したりしました。城南は割とバンド活動が盛んで、新入生の歓迎会など年に何回か演奏できるイベントがあって。学校のイベントのほか、ライブハウスを借りて卒業ライブもありました。

(写真/城南祭の前夜祭でドラムを演奏する谷さん。バンド名は「アボリジニーチョップ」)

 夢はずっと看護師のまま。考えるのがめんどうくさかったっていうのもあるのかな(笑)。でもブレなかったですね。医療系の学校が載っている雑誌をパラパラ見ていて、気になったところを受験し、神戸の看護の専門学校に進学することになりました。そこから一人暮らし。城南の大親友も神戸に進学したので、楽しいしかなかった! でも神山にはしょっちゅう帰っていましたね。休みが終わって神戸に帰りたくないってなっていると、父が「送ってやるわ。そしたらもうちょっとゆっくりできるやろ」と言ってくれました。神山に帰ったら帰ったで、家族と離れるのが寂しかったのだと思います。そういえば、神山から出たとき水の違いに驚きました。実家が山水だったので、城南で初めて冷水機で水を飲んだ時には衝撃でした(笑)。神戸に進学する際も“水問題”についてすごく考えていました。神山から水道を引っ張って神戸まで持っていけないかとか(笑)。カルチャーショックというか、やっぱり神山の水は美味しいんだと思いましたね。


―実際に働き始めて感じた、看護師の仕事の難しさややりがいはありますか?
 3年間、専門学校で学び就職。学生の間はいろいろな病院に実習に行くのですが、看護師さんってめっちゃ怖いんですよ(笑)。就職は、実習で行ったなかで一番優しくてリハビリを中心にするリハビリテーションセンターに。ビビりだったので、知らないところが怖かった(笑)。雰囲気がすごく良かったので入ったのですが、育ててくれる環境も良かった。絶対忙しいのに、先輩がちゃんと教えてくれる。もちろん厳しいこともあったけど、自分ができるようになったら同じように年下にせなあかんのやなって思うようになりました。

(写真/仲の良いリハビリテーションセンターの同期メンバーと、どろんこバレーに参加。中央が谷さん)

 4年勤めてその後、やっぱり徳島に戻りたいと徳島大学病院(徳大)に。そのころはリハビリしか知らなかったので、いろいろ知った方が良いと思いました。チャレンジしてみたいっていうのもあったのかな。今は徳大に来て18年目。たくさんの科があってそれを回るのですが、今は集中治療室を担当。今までで一番大変かもしれません。ゼロからやり直す、勉強し直すくらいの気持ちでやっています。私はおしゃべりが好きなので、患者さんとコミュニケーションをとりながら入院生活を支えます。良くなっていったり悪くなっていったり、経過を見ながら処置に対して「あの人これして良かったな」とか見えるのが良いと思っています。今のところでは、状態が悪い患者さんが入室しても落ち着いたら病棟に戻ったり、手術直後の患者さんも問題がなければ一泊で出たり。患者さんの一番大変な時期をサポートするので、「あの人どうなったのだろう」と経過を追えない寂しさも少しあります。でも、少しずつ自分にできることが増えて、今いるところも少し楽しめるようになってきたように思います。大学病院はいろいろな科があるので、勉強になりますよね。院内には教育をする役割があって、今それも担っています。時短勤務中なのでフルタイムでというわけではないのですが、新人の時に教えてもらったことを恩返ししたいと思っています。

(写真/現在勤めている徳島大学病院の同僚。右から二番目が谷さん)

―今の神山との関わりを教えてください。
 旦那さんも神山の人なので、子ども2人とちょくちょく帰っています。子どもは川で泳ぐことが大好きなので、川遊びで神山へ。神山の新しいことはあまり知らなくて、周りの人に聞かれても分からないのはちょっと寂しさはあるけど、たくさん人が来てくれるのは嬉しく思っています。

(写真/上段左から三番目が谷さん。今でも定期的に神中や城南の同級生家族とBBQをしている)

 

インタビュー・文:大南真理子


質問!まちの外で暮らす先輩にあれこれ聞いてみよう!(中学生)

Q:中学時代の一番の思い出は何ですか?
谷 一番の思い出は、3年間の寮生活です。掃除や洗濯といった生活全般の自立や上下関係、共同生活など、とても貴重な経験ができました。皆勤賞を取ったのも良い思い出です。修行のように感じ、魔女の宅急便の主人公、キキと自分を重ねることもありました(笑)。

Q:仕事で自分の成長を感じる時はいつですか?
谷 内科から外科、集中治療室へとさまざまな部署への異動に伴い、その時々で病気や治療、進歩し続ける医療のことを学んでいます。看護師人生を何年重ねても、いつも小さな成長を感じます。

Q:神山で一番好きな場所はどこですか?
谷 神山の自然の風景が大好きで、特に慣れ親しんだ実家の庭から眺める山の景色が好きです。初夏の緑が生い茂った山に、雨上がりにうっすらとした霧がかかるとさらに良く感じます。

Q:看護師をする上で大変なことは何ですか?
谷 自分自身の健康を維持することです。看護師は、患者さんの一番近くで24時間入院生活を支えるため、夜勤など不規則な勤務が欠かせません。若いころは平気でしたが、年々夜起きておくのがつらくなったり、腰痛に悩まされたり。看護師自身、体力と気力を養うことがとても大切だと思います。

Q:今何を一番頑張っていますか?
谷 今、頑張っているというか……日々必死なのは子育てです。仕事も育児時短勤務を取らせてもらっています。パワフルな子どもたちに、仕事以上に体力と気力を吸い取られているような気がします……(笑)。ママがコケないよう、いつも元気でいられるよう頑張っています!

Q:人生を変えてくれた人はいますか?
谷 難しい質問ですね(笑)。強いて言うならば、夫ですかね。神戸で働いていましたが、いつか徳島に帰りたいと思っていて、徳島に帰るきっかけになりました。おかげで、人生がいろいろ変わりました(笑)。

 

Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
編集部とりまとめ:大家孝文 

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やままち編集部

やままち編集部は、神山町出身の4名(大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)

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