特集

Vol.03

7つの地区から辿る
神山のいま、むかし

各地区に残る史料を手がかりに、
長く住む方々とかつての様子を辿ります。
浮かび上がってくるまちの姿とは?

第3話

左右内地区、黒口、松坂の家々を訪ねて

2023年2月14日 公開

神山町の地名に馴染みのない方は、左右内を「そうち」とは、読むことができないかもしれません。諸説ありますが、この地名は上山(現在の上分、下分)と下山(現在の鬼籠野、阿野、入田)の中ほどに位置し、左右に分ける地であることが由来となっているといいます。

四国八十八か所霊場、12番札所焼山寺を訪ねる方が多く、お遍路さんの行き交う姿が日常の風景となっているのは、この地区の特徴といえるでしょう。

『左右内小学校百年史』より

そんな左右内地区にお住いの4名にお話を聞いて、この地区を巡ります。 一人目に訪ねたのは、黒口にお住まいの後藤田弘祐さんです。


後藤田弘祐さん|昭和15年生まれ (妻 花子さん)
わしの家は農業をしよって、水稲、キビや粟を作ったり、麦や梅も作いよったな。加えて、おじいさんが起業して、製材業を始めた。昔は、山から人力で木を運び出して、川に水車を作って、それを動力にして木を切り出すというやり方やった。わしもその後を継いで製材業をしてました。以前は左右内に製材屋さんが3軒くらいはあったな。

暮しを支えた左右内の産業

―川の水が動力になっていたんですね。

後藤田おじいさんの代の話やけどね。最初は川水を貯めたダムをつくって、それで水を用水路へと流して水車を回しよったらしい。こんな大きな、直径10メーターもある水車が、「ばったん、ばったん」って。ようまわいよったよ。

わしが製材業を始めたんは、高校を卒業して徳島市からこっちに帰ってきてから。昭和33年やな。それから20年くらい前まではしよった。徳島の市場に出すことが多かったわ。九州に高速道路ができたときには需要が多くなって、九州の市場へ出しに行ったこともある。2年間ぐらいは熊本まで木を持って行ったりしよったな。

―製材していた木はどんなものですか?

後藤田ここらは杉が多いわな。自分たちで植えて育てて。川を挟んで下分へと繋がるところに持ち山があってそこで木を切って、皮を剥いて、乾燥させて出してきよったんでな。自分の肩で担いで。何人もで。ほんまえらい(しんどい)仕事やった。

―家のすぐそばが仕事場だったということですが、ご家族とも、ずっと黒口に住まれているんですか?

後藤田 妻は広野の持部(もちべ)というところの出身で、嫁いでこっちに来てもらった。子どもは4人、みな、左右内で育ちましたね。わしらの子育て中はまだ左右内に学校があって、息子の同級生は10人くらいはおったかな。保護者で話し合いをして「体育館を作ってほしい」って陳情にも行った。そんときは、今、これだけ人口が減るって思わんでな。

わしが子どもの頃は、友達の家に集まったりして放課後過ごしよったな。めんこをしたり、ベーゴマをしたり。こっちでは、ベーゴマは「バイ」って言ってな。どっかの店には必ず置いてあった。自分の息子達は、どうしてたかなぁ…。あんまり覚えとらんわ(笑)


左右内の子どもたち(年代不明)

あとは楽しみって言ったら、お祭りやな。地元の焼山寺のお祭りはもちろん行きよったけど、他にも阿川の二之宮のお祭りとか、神領の野間谷のところで花火が上がいよったのはよう覚えとる。お祭りの時には重箱があって、アジやボウゼの魚寿司や巻き寿司なんかの料理が詰まっとったね。それに、甘酒もつくいよったわ。

おそらく、野間谷の花火大会の際の写真。現在の、佐藤金物店やABCショップやすおかのあたり。

黒口から北上し、焼山寺から阿川に向かう中間点、山々の中腹に位置する松坂という集落があります。次に伺ったのは、その松坂にお住まいの栗岡良夫さんです。家の周りの畑は、こじんまりとしながらも手入れがされていて、きれいに整った印象でした。


栗岡良夫さん|大正15年生まれ
うちの家は、先々代からこの松坂に住んどって、私もずっとここにおります。以前は、米と麦を、家から100mくらい下の畑で作っとったんじゃ。田んぼは3反くらいあったんかいな。お米ができるのは、この辺の山がぎりぎりの高さじゃな。(ちなみに、栗岡さんのお宅があるのは標高555mの場所※)あと、杉の植林なんかもしよった。今は家の周りでそばや野菜を育てるくらい。最近はよう鹿が来て食うてくださるんじゃ。
※国土地理院ウェブサイト「地理院地図」より

地域の風習とその土台にあった「在所づきあい」

―今、松坂地区には何人くらい住んでいますか?

栗岡たぶん今は4軒くらいやな。私の家と近くに1軒、もうちょっと西にいったところに2軒くらい。

昔は、在所に15軒くらいあったけんどな、この家の周りにも4軒くらいあった。その時はまだ毎月に一回、お大師講(*1)をしよって、在所の家々に集まって、お念仏をあげてな。お茶を飲んだり、ご飯を食べたりする。酒もちょっと出たりな。

*1 お大師講…毎月20日前後に弘法大師をお祭りして、家や集会場に集い、お経を読む習慣。地域ごとにやり方は異なるが、集落の連絡・相談等を行うこともある。神山町では、現在でも続く集落がある。

―順々におうちを回るんですか?

栗岡そうじゃ、15軒あったけん、1年か2年に一度自分の家に回ってくる。その時はお寿司を作っておもてなしをしてな。昔やけん、ばら寿司じゃ。在所のことで言うと、近くの妙見神社の掃除をしたり、お祭りの準備をしたり、そのくらいのご近所付き合いがあったな。

お祭りの時には、その時々に頭屋(とうや)っちゅう当番の家がお世話役をするんやけど、それも段々としなくなったな。

身の回りのものは自前で作る、自給の暮らし

栗岡近所は梅を作って出荷しよったけど、うちはすだちを少し作ったり、米や野菜が主やったな。機械化するまでは、牛を飼ってな、農耕用の。納屋のところに牛舎があって、その牛を田んぼや畑に連れて行っきょった。百姓しよる家には大抵おったわな。

飼っていた牛はメスじゃったけん、子どもを産んだらそれを売ってお金にしたりしてな。寄井の、町役場がある辺りに昔は市が立っとったけん、そこまで連れて行って。牛飼いの人やら、業者やらみんなが寄って行って競り落とすんよ。

―どのくらいの時期まで、牛と一緒に生活をしてました?

栗岡どのくらいやろ?終戦して、5年後とかそのくらいかいな。それからは一気に機械化したな。田んぼが出来んくなってからは、そこに杉の木を植えて、切って出したりもしたな。

切り出した木はうちで挽いて、自分の家で使ったりもしよった。木を挽く機械を買って、庭に置いてな。発電機で動かして製材した板に、トタンを貼って小屋を作ったりね。

―自分の家を修理したり、新しく作ったりしていたんですね。

栗岡そう、あくまで自分のところ用にな。ペンキを塗ったり、板を貼ったり、大体はしよった。大きいものは、知り合いの大工さんに見てもらいながら、「材料はうちのがあるから」って。自分でセメントを囲う。そんな風にして生活してきたな。

そんな感じじゃけんな、あんまり外に出かけるってことがない。今でこそ息子や孫が買い物してくれよるけんど、昔は米や野菜も自分のところで作いよったし、必要な調味料なんかを鍋岩の商店まで買いに行くくらい。ほとんど自前やな。


鍋岩の様子(年代不明)写真中央上部には、左右内小学校があり、通りには商店のすがたも見える。

松坂からふたたび黒口に戻り、3人目に、桂道弘さんを訪ねました。黒口にある善長寺のご住職を勤められています。


桂道弘さん|昭和27年生まれ (妻 友子さん)
私は、以前は神山町役場に務めて、退職してからは、善長寺の住職をしています。檀家寺でもあるし、前職の関係もあって、左右内や下分の人との繋がりは深いです。

―ここへ来る前に、黒口の後藤田さん、松坂の栗岡さんにお話を伺ってきました。お二方とも「左右内全体のことについては、あまり詳しくないから、桂さんに聞いたらいい」って。

それは先輩方からのプレッシャーやな(笑)。私のほうが経験はないけれど、分かることなら。

子どもたちの日常と、お遍路さんが飛び入りする左右内大運動会

―桂さんはこの土地で生まれ育ったんですよね。

ここで生まれて、左右内小学校に通って。中学校は神領中学校に通いました。乗り合いバスに乗っていくけど、人数が多いもんで乗り切れんから、ピストン輸送してな。鍋岩から下の集落の子は、早朝、6時半頃かな、「左右内口」までいったん行って、川又から来るバスに乗り換えて行きよった。青雲寮(*2)も無かったけんね。

*2 青雲寮…昭和45年に整備された、神山中学校の寄宿舎。『神山町史 下巻』によると「東西41km余りある神山町において、神山中学校への通学距離は、最遠の通学声にとって20kmとなる。通学性の疲労度の軽減、教育水準の向上の面からも寄宿舎の建設は何をおいても必要とする物であった。」と記載がある。

1台に乗り切らないほど、多くの人に利用されていたという徳島バス(参考/下分・安吉の様子)

中学校は50メートルプールがあったのが誇らしかったな。水泳大会が開かれたり、町民プールでもあったから、時期になると開放されて他の地区の子どもたちも来たりね。自分たちからすると神領が中心という感覚があったな。

―左右内の子どもたちも神領に遊びに行くんですか?

そうとは限らんな。ここらだけでも子どもはようけおったから。

「家づくり」って、竹を切って、四角く木を組んで、シュロで屋根を作って遊んだりね。そこに家から柿や干し芋を持ち込んみょった。 

子どもは、特に男の子は、必ずナイフを持っとったな。肥後守っちゅうナイフ、切り出し包丁みたいな。ほれがあると、突き鉄砲とか、いろんなものを作れたりするんよ。学校でも鉛筆削るっちゅうたら、ほれで削んりょったで。川でも遊びよった。すぐ下が川(左右内谷川)やけんな。

あとは、思い出深いって言ったら、左右内の大運動会。地域の人がみんな寄って、お遍路さんなんかも参加してな。

―お遍路さんがですか?

そうそう、小学校のそばが遍路道でようおったけんな、たまたま運動会の日に通ったお遍路さんは、飛び入りで競技に出てもらったりしよった。きっと参加した人はいまでも覚えてくれているんじゃないかな。

運動会の夜は、体育館で大反省会。その会には、子どもはもうおらんのよ。保護者が中心。大人たちはそっちがメインになっとったんじゃないかな。近所の人がモクズガニをようけ獲ってきてくれて、それを酒のアテにして。

あと、「魚釣り競争」っていう競技があってな。ほんまのウナギとかモクズガニとかでしよった。グラウンドの真ん中に水槽を据えて、釣って、ゴールまで走る。来賓で来てくれた役員さんとかは「左右内の運動会に行ったら、魚釣り競争があるぞ」っておもしろがっとった、独特な競技やったんだろうね。


左右内小学校舎。現在も残る本館(中央建物)とは窓の配置などが異なることから、本館改築(昭和32年)より前の写真と思われる。(山本さん提供)

―近くにお住いの方々同士で、ご近所付き合いはありますか?

 そうやなぁ、今はお大師講もうちの集落では止まってしまって、近所での行き来も少なくなったな。

昔は、それこそテレビの出始めの時なんかは、数少ないテレビを持っとる家に上がりこんで見せてもらいよったな。さすがに大人は遠慮して行かんけど、子どもは集まってな。当時流行っていたプロレスとか「ロッテ 歌のアルバム」とか、「がっちり買いまショウ」とか見てな。笑

1つの家に子どもが3人も4人も上がりこんで。もう、保育所のようやな。夕飯時分でもいくんよ。今考えると、当時は夏やったらゴム草履で、裸足だから、子どもの足も汚かったでなぁ。よく怒らんで許してくれよったわ。


「昔の写真があれば」というリクエストに応じて、桂さんが提供してくださった写真。善長寺に地域の子どもたちが遠足か何かで訪ねてきた時の様子。列に並び、前のめりになりながら何かを受け取り、頬張っている。

お三方を訪ねる前の、予習段階でお話を聞かせてくださった、馬地出身でJA名西郡にお勤めの山本實義さん。最後はその山本さんとともに、ここまで聞いてきたことを振り返りながらご自身の思い出も伺いました。


山本實義さん|昭和31年生まれ(以下、山本)
僕も左右内小学校に通いよったけん、子ども時代の話は懐かしいね。自分のころは、桂さんの時代よりは少ないかもしれんけど、それでも子どもは今より多くて、同級生も10数人いたと思う。

ナイフもみんな持ってたけん、自分たちで遊ぶもんは作れた。竹で鉄砲を作ったり、そりを自分たちで作ったり。もうじき雪が降るでしょ?(取材したのは12月上旬)そうしたら、家の前の道を滑り降りる。あれは楽しかったわ。

あとは、山には今のように木が生えてなかった。道からは今よりもっと家々を見渡せて、夕暮れになると、その家の煙突からぽつぽつと煙が上がってくるんよな。ご飯を炊いたり、お風呂を沸かしたりのね。綺麗やったな。

―町史や郷土史をみていると、「左右内果樹研究会がいち早く産業として梅栽培を取り入れた」とあります。

山本 そうやな、(今回聞いた方々に梅農家は居なかったけれど)左右内でも梅の栽培は盛んやった。左右内のような土地でどんな品種が適しているか、農家の方々が試行錯誤しよったんと思います。

昔から鶯宿という品種に注力しよって、値段も高く売れよったね。今の3倍くらいちゃうんかな。今はもう、作り手が減って3軒かな。それくらいになってしまった。

―訪問したお三方の話を聞きつつ、改めて、以前の様子をふりかえっていただいて、どのようにお感じになっていますか。

山本こういう話ってあんまり普段聞くことが無いよね。

どうやって製材していたかとか、私は知らんかった。それに、学校の周辺の様子とか色々思い出すな。「パン屋とか、うどん屋とか、あったな」って。ひとつひとつ無くなって今の地域の状況があるというのは、振り返ると改めて思い出すね。

昭和30年代頃の鍋岩の様子(『神山町史 上巻』より)

山本私自身は、段々と、古いもんがいいなと思うようになってきた。昔は新しいもんがよかったけどな。このあいだも、家にあった農具を整理しよったけど、昔のモノの方が使いやすくって丈夫やったりするんよな。捨ててしまったんも多くて、後悔しとる。

私は長く住んでいるし、農協新聞なんかを配り歩いたりもしてたから、左右内や下分なんかの人たちは、声だけでわかってしまう。まあそういう人が一人ぐらいいてもいいのかな(笑)。古い写真もまだ残ってるかも。家を漁って、探してみようかな。

取材から数日後、山本さんが提供してくださった写真。裏面には「昭和十七年三月二一日 本科一、二年」と記載がある。


次回は、阿川へと場所を移します。「梅の里」と名高い阿川地区、左右内での梅栽培とつながるところはあるのでしょうか。過去には鉱山に採掘作業場があったという記述もあり、産業分野でも深堀してゆきます。

参考資料
『神山町誌 上巻・下巻』(平成17年3月 神山町発行)
『左右内小学校百年史』(昭和56年11月20日 左右内小学校創立百周年記念事業推進委員会発行)

文:駒形良介
制作協力:高橋啓
古写真データ提供:小松崎剛
企画・制作:神山つなぐ公社