Vol.03
7つの地区から辿る
神山のいま、むかし
各地区に残る史料を手がかりに、
長く住む方々とかつての様子を辿ります。
浮かび上がってくるまちの姿とは?
第2話
下分地区、今井・粟飯原邸にて
2022年12月20日 公開
下分は、鮎喰川に沿った東西に伸びる土地と左右山谷、喜来谷それぞれに流れる支流域によって形成されています。
地域を鮮やかな飾りが彩る「下分七夕祭り」や公民館の駐車場がマーケットになる「よこの市」のように、暮らしている人たちの手で作られる行事があります。準備や設営を多くの人の手で進めるため、近所の方同士が顔を合わせたり、最近では長く住む人と、新しく住み始めた転入者との顔合わせの機会にもなっています。
このような場が続いていることは、町内でも転入者の多い傾向がある下分地区の特徴を形作る1つの要素かもしれません。
地域活動に励む人の多いこの地区で、いまなお現役で活躍されているお三方にお話を伺います。また、今回はそのうちのおひとり粟飯原育子さんのご厚意により、ご自宅にお邪魔してお話を聞かせていただきました。
木元史幸さん|昭和25年生まれ(以下、木元)
家は寺久保にありまして、私で3代目になります。仕事は、花や野菜の苗ものを生産しています。最近、すだちを作り始めました。化成肥料や消毒を少なくする農法を日々、工夫しながら行っています。
父親の代までは家業として、石工をしていました。このあたりは、川に行っても山に行っても石がたくさんあるから、そんなのを調達しながら生業にしていたそうです。道路とか田んぼの法面(のりめん)などを石を積んで作ったり。コンクリートが出来る前だから、重宝されたと思う。縦から揺れても横から揺れても崩れないように慎重に作っていたと聞いていました。
粟飯原育子さん|昭和12年生まれ(以下、粟飯原)
生まれも育ちもここ、下分の今井です。今井は上山橋から左右山谷橋のあたりまで一帯のことだけど、出張してきて(山の上の方から移ってきて)住んでいる人が多いこのあたりは「ではり(出張)」と呼ばれてた。下には粟飯原っていう家が数軒あるので、「ではりの粟飯原さん」って呼ばれることが多かったです。この中では最年長になるね。孫には「ばあちゃんは100歳超えても、絶対生きてる。」って言われるわ。まだまだ、口だけは達者よ。
私の家は、ここでお店をつくりました。お米や学用品、化粧品とか何でも。今もその名残ではがきや切手、タバコとかを置いています。お店も少なくなって、買う人も少なくなっているけれど、買ってくれる人がいてくれるうちは続けなきゃと思っています。
森本晉子さん|昭和16年生まれ(以下、森本)
下分の三ツ木という場所で生まれました。22歳頃に結婚をして、同じ下分の大久保に行き、今も住んでいます。昔、下分にあった幼稚園の西の園舎が、自衛隊の寮として松茂町に移築されるということがありました。大工の主人がその仕事へ行くことになったので一緒について行って、そのまま9年間松茂町に住んでいたこともあります。
うちは農業をする百姓の家でした。「ほうり」っていうのをさせられたのを覚えてる。畑に麦をまくときに、種に土をまぶしてつぶすんよ。その作業が当時の私は背が小さくてできんの。だから、道具を首にひっかけてぶんぶんと振りまかなくちゃいけない。それが大変で大変で。
今も森本さんの家にある「ほうり」を見せていただきました。左右に振って、土を散らして使うそうです。
身近にあるもので工夫したり、遊んだり。
―子ども時代はどんな風に過ごしていましたか?
森本今は下分には保育所があって学校は無いけれど、昔の小学校には同じ敷地(現・下分公民館の場所)の中に、中学校、幼稚園まであって賑やかでした。
修学旅行には左右内の子どもたちも来て、合同で行っていたと思う。
粟飯原給食が始まったのは、私の子どもが小学校低学年のころだから昭和45年過ぎたくらいかな?それまではお弁当を持って行ったり、私みたいに家が近い子は家に帰ってお昼ご飯を食べたりしていた。
木元みんな冬になったら、お正月についたお餅をお弁当に入れて持って行ったりしていたな。醤油焼きにしたりとか。お昼には、冷えて固かったけどな。
森本あれ、アルミにくるんで、カイロをくっつけて鞄に入れておくとお昼になっても柔らかいまま食べれるんよ。
一同へーっ!
森本私、最近でもその方法をやってるわ。
木元子どもの頃は、当たり前かもしれないけれど、とにかく遊ぶのが好きでした。野に山に川に。学校に行くときは集団登校していたんだけど、僕たちの地域の集合場所は宇佐八幡神社だった。友達が集まってきて皆を待つ間に、ケンカをしたり相撲をしたりして時間をつぶしていたな。
かつての宇佐八幡神社。この頃は鳥居が2つ並んでいる。粟飯原育子さんが子どもの頃は、既に現在の姿(大きな鳥居が1つ)だったそうなので、それ以前のもの。
森本ほなって、今の様に娯楽が少ないからね。テレビや何やらがない時代は自分たちで遊ぶしかなかったよね。外で、段々畑を上から飛んで飛んで。今から考えてもかなり高いところから飛ぶんよ。あと、ありきたりだけれど鬼ごっこやかくれんぼは楽しかったな。
木元当時は、学校で出席確認も無かったように思う。家を出るときは、一応恰好だけでも弁当を持って、家の人から「行ってらっしゃい」って送り出されて、山に行くなんてこともできた。別の時は、川で魚を取ったり。いわゆる「山川学校」やね。僕は学校から家が近かったから、そんなことは、なかなかできなかったけれど。(笑)
合併して現在の「神山町」になって間もない、昭和32年頃の様子。
写真左の上部には旧下分小学校(この時代は中学校舎)や宇佐八幡神社が、宮前橋を挟んだ対岸には、保育所や旧役場などがある。
地域内外から多くの人が参加する、秋祭りの風景
粟飯原秋の運動会は、幼稚園から中学校、それに婦人会、老人会、消防団、あらゆる地域の団体が集まってしていたことも印象的だったな。「中組」「下組」のように住んでいる地区別の種目もあったりして。あとは、みんなが集まって手作りのお弁当をお重に入れて持ち寄るんだけど、それが楽しみで仕方なかったね。
昭和40年代 下分中学校での運動会の様子
森本そうそう、当時の運動会って、だいたいお祭りがあった次の日にするんよ。ほなけん、お弁当はご馳走がいっぱい。祭りの余韻があって、それが良かった。
粟飯原前の日にある宇佐八幡神社での秋祭り(*1)には、下分じゅうの人どころではなく、上分の人もようけ来てた。上分にある神社の御神体が、大水のときに下分に流れ着いてそれを祀っているという謂れがあるから、上分からも氏子が来ているんだと思う。
お神輿は現在でもしているけれど、以前は各地区に屋台があって、子どもたちは屋台に乗るために練習もしていた。
*1 下分と左右内では、大正はじめの神社合併で下分上山地区の50社を合祀した下分西寺宇佐八幡神社の祭日が10月10日である。平成12年(2000年)から10月15日とした。当日は式の後、神幸祭がある。社号額、神輿のあとからだんじり(大楽車)が4人の打ち子を乗せ太鼓を打ちながら進み、アバレ(勇み屋台)が続く。(神山町史 上巻より)
森本大きいだんじりは地区が持ち回りで担当していた。中組、下組、喜来谷組、南谷組とか、ようけ地区分けがあったなあ。
子どもが多いから、屋台に乗る役目は抽選で選んでいた。上に乗った子どもは鐘をうったりしていたね。
私の娘や息子の時は、子どもの数も少なくなって、抽選は無くなり、「打ち児をしてくれるで」って頼まれた。昔は男の子だけだったけれど、性別関係なく女の子もするようになったとったね。
木元五穀豊穣を祈願して、「二千穀、どんどん」って掛け声をして太鼓を打つのが打ち児の仕事。練習に専念することを学校でも認められていたので、授業を途中で早引きして、教えてもらう地域の人の家に呼ばれて行ってた。夜ご飯を食べさせてもらうこともあったから、子どもたちは喜んで行ってたと思う。そのうえに勉強をしなくていいしね。(笑)
粟飯原次第にお世話する人もなくなり、打つ人もいなくなりで縮小していった。思い出すともう、寂しいな。子どもがいなくなった今、お年寄りがしてもいいかなと思うこともあるが、お世話をしてくれる人がいないな。
秋祭りで打ち児を務めた子どもたち
道具市だけではない「辰の市」の活況
宇佐八幡神社の鳥居の前に広がる辰の市の光景
―(資料の写真を指して)この「辰の市」もお祭りの一環ですか?
森本辰の市はまた別で、12月最初の辰の日にやる道具市。賑やかだったな。露店もいっぱい並んで、地域のひともようけ行っとった。手で作った竹細工だの籠だの、農具が売られとってな。農具は、いまみたいな機械とか大きいものではなくて、手で持って帰れるくらいのもの。瀬戸物なんかもあったよ。
粟飯原お宮の前の橋を渡ったところから馬場までずらっと。いまの下分保育所のあたり。お店もお客も多くて、押しのけて通るくらい。
女の子は境内で「浦安の舞」を舞っていた。それも舞姫(巫女)となる子どもはくじびきで選ばれるんだけれど、なかなか当たらなかったな。
木元お相撲もあったりな、近くの鮎喰川の川原に大きな土俵をこしらえて。「東京相撲がくる」って聞いたことがあったので、当時の有名な力士も来てたと思うよ。
土俵の周りを見物客がぐるっと囲んで、子どもも大人も一緒に見物してね。土俵が見えないくらいにお客さんがいたね。
―地域総出で、という行事は他にもありましたか?
森本みんなで一緒にっていうのはお祭りくらいだけれど、例えば近所同士で「いでぼし」を作ったりはしていたな。秋になったらお芋がとれるだろ。そうしたら近所2,3軒が寄ってきてな、芋を大鍋で茹でて、芋藁にさすんよ。昔は冷蔵庫や冷凍庫もそんなに無かったから保存食としてな。
木元そういえば最近は軒下いっぱいにずらーっといで干ししてる家も最近は見ないな。最高だったなぁ、食べたくなってきた。
―話してみてどうでしたか?
木元(昔のことを振り返る機会は)なかなか、無いなあ。それ以前に人と話をする機会自体がもう無いし、昔のこと知っとんは我々世代くらいでね。
僕らも若い時は外に出て、ほんで23、24歳で帰ってきて。そしたらもうそこは、大人の世界ばっかりでね。一気に親の世代や、僕らより5つ6つ上の人のいる社会へと入ることになるよね。
地域のそういう付き合いの中でいろんなことを教えられてきた。「こういうとこは改善していかないかんな」とか、「こういうとこは引き継いだらいかんな」とかね。そうやって地域の中でいろんな人と関わって学んでいくんだろうね。
森本 昔のことがわかる人がもうほとんどおらんで。今の若い人たちに話ても通じん。だから、集まって話すのはひさしぶりで嬉しかったね。
次回は、左右内地区のお話を伺います。四国八十八か所十二番札所・焼山寺のふもとの左右内地区には、昔からお遍路さんが行き交う姿が見られます。急峻な土地も多いこの地域では、どのような生活があったのでしょうか。
参考資料
『神山町誌 上巻・下巻』(平成17年3月 神山町発行)
『下分上山村史 第三編』(昭和36年8月1日 下分上山村史編集委員会発行)
『上山のくらし』(昭和59年 神山のくらし編集委員会発行)
『下分下組誌』(小間坂進精著)
文:駒形良介
制作協力:高橋啓
古写真データ提供:小松崎剛
企画・制作:神山つなぐ公社