特集

Vol.03

7つの地区から辿る
神山のいま、むかし

各地区に残る史料を手がかりに、
長く住む方々とかつての様子を辿ります。
浮かび上がってくるまちの姿とは?

第5話

広野地区、歯ノ辻、南行者野の家々を訪ねて

2023年3月31日 公開

阿川に続き、旧阿野村に属するもうひとつの地域である広野。鮎喰川の下流に位置し、須賀山を望む五反地(ごたんじ)や、夏には川遊びを楽しむ人の姿が多く見られる高瀬(たかせ)などの地域があります。また、四季の植物を楽しめる神山森林公園など、神山町の入り口として多くの人が訪れます。

広野地区で最初に訪ねたのは、後藤さんご夫婦。石井町へと通じる新童学寺トンネルの手前、歯ノ辻にお住まいです。


(右)後藤公輔さん|昭和15年生まれ(以下、公輔)
歯ノ辻で生まれました。親父に行けと言われて何やわからんけど鳥取の大学へ行って、卒業後は徳島県庁に勤めよったけん、定年までは徳島市内に住んでおった。親父が養蚕の種屋をしよったけん、寝るときにおかいこさんが桑の葉食べて「バリバリ」音がしよったのは覚えとるなあ。

(左)後藤貴美子さん|昭和16年生まれ(以下、貴美子)
生まれは徳島市、今の文化の森公園のあたりです。27歳の時に嫁に来ました。体育の先生をしよったけん、県内の高校を何校か転々としてな。定年退職してから、歯ノ辻で暮らしてます。
 

「やま」と「まち」の中間点、広野地区の地勢

公輔私らの住んでいるのは広野の歯ノ辻。ほたら、ここは元は阿野村っちゅうてな。周りの村と合併して、神山町の広野になった。

ここから神領っちゅうたら、16キロぐらい距離があるんよ。徳島市に行くんも、15キロで同じくらい。神山町の奥に行くっていうと、この辺りと同じくらい辺ぴなところへ向かう印象になるけん、何かここに無いものを求めるとなると、どうしても徳島市を向くようになるわな。

そんな土地柄もあって、行政区の見直しをするときには、だいぶ議論があったんよ。ちょっと行ったら入田小学校(徳島市入田町)があるやろ。峠を越えたら石井町があって、行き来も多かったし、今は新童学寺トンネルが出来て、4キロやそこらで石井町役場に着くしね。


新童学寺トンネルができる以前に使われいた、童学寺トンネル(神山町史より) 

貴美子新童学寺トンネルが出来た時に、知り合いから「後藤さんのところは、便利になりましたね」って言われたことがあるけれど、養瀬トンネルも新府能トンネルもできて、佐那河内方面にも便利になったよな。逆に、そのトンネルができたばっかりに人が減ったという側面もあると思うわ。
 
トンネルが出来る前は、ずいぶん人の流れも違って。うちの前の道から川へ下りていったら「こんにゃく橋(*1)」があってね。
*1 たがい違いに板が渡してある橋のこと。板には紐が付いていて、川の水が増えた場合でも、完全には板が流れていかないようになっている。
 
公輔橋の向こう岸の徳島市の人が、石井へ行くのに川を渡ってきてたな。通勤で職場へ行く人や、徳島の洋裁学校へ行く人もその橋を通っていきよった。
 
貴美子バスが入田のほうに来ていたりもしていたけれど、昔は交通が不便だった印象があるわ。

森林公園と植樹祭の記憶

貴美子広野地域として、大きな出来事は森林公園ができたことやね。
徳島で開催された全国植樹祭の会場が、新しくなった森林公園だったんよ。今の上皇さんが、平成になって初めて地方を訪れたのがこの時だったな。
 
植樹祭当日は、会場に行けるのは、ほんの限られた人だけでな。私らみたいな有象無象は、道々で並んで待つ。一目見ようと何時間も待ったのを覚えとるよ。半分開けた車の窓の間から(当時の)天皇陛下のお姿を見て、私思うたんよ。「こんな上品な方が世の中におるんか」って。

公輔わしは公園で式典の様子を見たけど、体が弱かった親父は、公園でなしに沿道で旗振りをしよった。ほなけんど、それでも「嬉しい」って涙流しよったわ。
 
貴美子道もきれいになったし、春は桜が何段階にも咲いて。そんな景色がある広野は「いいところやな」って思う。友達が来たら森林公園まで連れて行くよ。生活はしにくいところもあるけれど、ええところもいっぱいあるんよな。

昭和62年頃、神山森林公園の敷地整備中の様子 

豊富だった広野の川の恵み

公輔ここらへんにゴルフ場ができる前には山田という田んぼがあった。そこへ「カーバイド」っていう道具を持って、夜に行くんよ。ガスの燃料に石みたいなん入れたら、発光するやつなんじゃけど、灯りの代わりにしてな。

ほしたら灯りに驚いて、うなぎが出てくる。それを、二股に分かれとる小さいクワでちょーんと挟むんじゃわ。上手な人は頭のちょうど首根っこのところへ引っ掛けて捕まえる。谷を通じてウナギがはい上がっていっとんよ。子どもながらに自然ちゅうもんはごっついなぁと思ったね。
 
貴美子私が人から聞いた話ではね、長谷(ながたに)から川が合流する谷のところへ9月の月夜の日にカニを獲りに行く。うちは獲りに行かんかったけん、獲りに行った人がよう分けてくれた。それと、昔は今のような川でなかったらしいね。もっと水量が多くて、子どもたちは魚突いたりしよったみたいやね。
 
公輔アユでも、わしらは川に入って追いかけるんよ。ほしたら、目の前で川から河原へ飛び出してな。そんな遊びもしよったわ。

捕まえたじゃこっていうこまい魚を几帳面に串に刺して焼いてな。もう何串もこしらえるんじゃわ。昔はじゃこだけじゃない、じんぞくやでも、そんだけいろいろな食べ方が出来るくらいに、とにかくようけ獲れよった。美味しかったかはあんまり覚えていないけど、腹が減っとったけんな。笑

昭和46年の行者野水泳場 写真提供_阿津満屋製菓 
まだ学校にプールが無かった頃の様子、保護者が交代で見守っていたそう


行者野の川原での光景(年代不明) 写真提供_阿津満屋製菓
みんなでうどんを食べている様子とのこと

歯ノ辻に母が創った、私設の洋裁学校

公輔母親がな、戦後の一時期に学校の運営をしよったんよ。和洋裁縫女学校を。たしか、上分の川又や金泉から通いおった人もおったんちゃうかな。徳島や石井へ通うには遠いし、お金もようけ要るでぇな。
 
貴美子昔は嫁さんに行くのに、着物が縫えなんだらあかんかった。料理ができなかったらあかん、とは言われんのよな。でも、着物が縫えるようになっとらなあかん。その頃はミシンがそうそうないだろ。今みたいに服売りもおらん。結局は、衣服にしたって、お布団にしたって、みな自分で仕立ててた時代やね。
 
後藤和洋裁縫女学校の集合写真(年代不明) 写真提供_後藤広輔

 

歯ノ辻から行者野橋を渡ったたもとにある「ワインフードショップミヤタ」。数年前までこのお店を営んでいた宮田さん夫妻を訪ねると、ご近所に住む坂東さん兄弟の姿もありました。「広野のことなら、坂東さんの方がよう知っとる」と呼んでくださったそう。同じ在所で暮らし、付き合いの長い4名のお話を伺いました。


(左)宮田良子さん|昭和10年生まれ(以下、良子)
出身は河口で、昭和30年に嫁いできました。一緒に商売しおった主人が外に働きに出た後も、うちはお店をしおった。パートさんを雇うて、うちは中央卸売市場へ仕入れに行って。もんてきたら(戻ってきたら)、袋に入れて棚に並べて、をほとんど毎日繰り返してな。畳んだのは10年くらい前やけん、60年くらいずっと続けた。今振り返ったら、ようやったなあ、て思う。

(中右)宮田武二さん|昭和年7生まれ(以下、武二)
行者野で生まれて、もうずっとここです。家は「ワインフードショップミヤタ」ってお店で、日用品や食料品、酒なんかを販売しおった。もとは旧道沿いにあって、その頃は飲食業もしおったで。米屋もな。30歳過ぎた頃から店は妻に任せて、徳島市内の青写真の会社(印刷屋)に勤めに行きおった。
 
(中左)坂東安治さん|昭和8年生まれ(以下、安治)

行者野で生まれて、行者野で育ちました。仕事はずっと土建屋に勤めておった。ほなけん、仕事の付き合いもあって神山の奥の方(神領や上分)のこともよう知っとうわ。今は農業をして、たまに出荷したりを、弟と一緒にな。
 
(右)坂東次雄さん|昭和14年生まれ(以下、次雄)

安治の弟です。私は学校を卒業して、東京で就職して働いてました。帰ってきたのは40年くらい前。それからは、製材業者の従業員として働いとった。東京にいた時も木材関係の仕事をしてた。だから、木食い虫だな。木を売って生活するから、木食い虫。
 

武二うちの店の創業は、わしが子供だった頃だと思うからだいぶ古いのう。おばあさんが手伝いをしおったのを覚えとるけどな。もとは昔の街道沿いで、終戦後に今の場所に移って店を始めたらしい。
 
安治ほうやな。終戦後2年くらい経って出来おったな。それまで、畑を埋め立てたり段取りしてな。その頃は今の県道がまだなくて、お店のすぐ裏の鮎喰川寄りの道が、本街道やったな。

武二仕入れしたりするには、今の徳島市内の方やないと問屋が無いからできんでな。わしも学校へ行くときに、かごを持って行って、戻りしなに仕入れしおったことがある。

良子学校の先生に「宮田、お前は学校に勉強しに来よんか、商売しに来よんか」って言われおったらしいな。今やったら問屋さんが来たり、配達してくれるようになっとるけど、終戦直後とかはそうじゃなかっただろうけんな。

だんだん道路も良うなって、車で早く移動できるようになったけど、自転車や歩きの時代は、行商人やがちょうどこの辺でうどんを食べたり一服しおったみたいやな。

製材業を支えた馬車引きの仕事

安治うちの親父は馬車組合の組合長をしおったんや。お使いを頼まれたら自分も一宮まで40分かけて橋を渡って、走っていって。親父に「今日は早う学校から戻ってきて行ってこいよ」って言われるで。ほれがもうしんどいんよ。しんどかったけど、行ったら行ったでな、お菓子くれるんよ。「僕、よう来てくれたなあ」っちゅうて、ほれが嬉しいために行きよるだけのこと。

阿川の二ノ宮のお祭りには、何回こそ行かされたか。馬のお祭りやけん、親父が馬車引きしとったから、しゃあないけどな。

次雄うちは「新宅」っていって、本家に対する分家みたいなもん。だから、田畑も農業だけで食っていけるほど多くなかったんよ。兼業で馬車引きをしてな。今でいうところの運送屋のイメージやな。馬は3頭おったで、引く人を雇ったりして材木なんかを運んどった。それで稼いで、田んぼを買ったりしてたな。

神山は材木がええけんな、神領へ行ったり鬼籠野へ行ったりして、製材した木を運んどった。製材業者は馬なんか持ってないけんな。うちみたいな馬車引きが、徳島まで運ぶ役を担っていたんよ。

広野・歯ノ辻での様子(年代不明)(参考)

安治牛がおったときもあったよ、わしが14歳の時かいな。乳牛を飼いおって、乳を搾らされたわ。牛乳業者へ出しとった。ほかの仕事が忙しくなって辞めたけどな。

祭りに表れる地域性

良子広野って一括りにしても広いからね、10月ごろから各地で祭りが始まるけど、歯ノ辻が一番早かった。10月28日ころかな。五反地が2日、広野が3日みたいに次々と開催されていて、それぞれの氏子が参加する。

ほなけんその時期は、広野にある事業所の従業員がパラパラと休んで人がおらんで。仕事にならん。それで「お祭りの日を統一せんか」っていって、10月28日になった。

次雄お太夫さんはお祭りのときは大変よな。今までは、日を変えて行けたけど、一日で全部回らなきゃならんくなったからな。広野地区には一人しかいなかったから、国府から呼んで来てもらったり、あちこちから来てくれる。

安治歯の辻さんは「船盡(ふなはて)神社」って有名なところだった。お祭りの日になると歯の辻さんの横で氏子の子どもが寄って相撲を取ったりしてた。二つ土俵があっての。行事らしいことはそれくらいで、踊りとか太鼓はなかった。


昭和30年代 小童神社の秋祭りの準備の模様(参考) 写真提供_大草昭

良子お祭りっていったら、甘酒して、頭のついた魚寿司、お赤飯なんかをして、親戚を呼んでもてなしたりしおった。その御馳走を食べることが中心だったから、「食い祭り」って呼びよったな。

次雄私が思うに、お神輿とか舞いとか派手なことをやれるのは豊かな地域よ。上分や神領を見てると、木材とかをどんどん切り出せて、林業とかの産業が盛んだったからお金があったんじゃないかな。広野には商売人はいたけれど、奥の地域ほどの資産はなかったんじゃないかと思うな。

安治お金の問題もあると思うし、このへんの人はまとまりがないな。先導者があんまりおらん。昔は人の前に立つ人には、身銭を切って、私財を投げうって、という人で無ければならんかった。そうやってまとめる人もおらんかったから、お祭りやでも「みんなでなにかをしよう」ってならん。

ほなけん、継げるような家業が少ないから、勤め人が多いと思うよ、徳島に通うのも近いし。進学でも就職でも、いい大学に行くより、早く高校を出て就職するっていうほうが手っ取り早かった。環境によって教育や考え方も変わってくるわな。
 

―今回、ご自身のこれまでのことや地域のことを伺いましたが、いかがでしたか?

次雄一度東京に出ていた時代があって、それはそれで面白かった。若い時だったし、東京の暮らしで刺激も多かった。でも、兄貴に声をかけてもらって帰ってきて、その選択は良かったと思ってるな。仕事があるかとか、いろんな問題もあったけれど、帰ってきてからいろんな人に声を掛けてもらえたり、神山の環境は断然いいなと思うね。

良子昔の地域のことなんか、「誰が興味あるのかな?」って思ったけど、実際話してみて、自分自身忘れていることも多かったな。みんなで話すといろいろ思い出す。みな、よう覚えとるね。笑

自分の子どもや、もっと下の世代は、地区の歴史やら文化やらを知らない子が多いで。ほなけんこそ、伝え続けたり、変化が激しい今やこれからのことも残していかないけんと思うな。

武二私も、ほとんどのことを忘れてしまったけど、こうやってワイワイ話せて楽しかったな。ほんで、みんなが元気なことが何より。

次回は、すだちの産地として有名な鬼籠野(おろの)です。さくら街道やゆうかの里で近年では桜の名所にもなっています。地域が誇る名物を作ってきた鬼籠野の方々からはどのようなお話が聞けるでしょうか。

参考資料
『神山町誌 上巻・下巻』(平成17年3月 神山町発行)
『阿野村史』(昭和33年3月31日 川内義計発行)

文:駒形良介
制作協力:高橋啓
古写真データ提供:小松崎剛
企画・制作:神山つなぐ公社