特集

Vol.03

7つの地区から辿る
神山のいま、むかし

各地区に残る史料を手がかりに、
長く住む方々とかつての様子を辿ります。
浮かび上がってくるまちの姿とは?

第6話

鬼籠野地区、川東の鬼籠野公民館にて

2023年3月31日 公開

路線バスで神山町へ向かうと「オロノ」という停留所に行き着きます。漢字に変換すると「鬼籠野」ですが、カタカナ表記は初見の来訪者への配慮でしょうか。

神山町の南東に位置する鬼籠野は、スダチの一大産地として有名です。「催しをするなら、収穫時期を外すように」と言われるくらいに、収穫時期は忙しく、地域ぐるみでスダチ栽培に取り組んでいます。春になると花見客で賑わう「神山さくら街道」があるのもこの地域です。

今回は東分にお住いの橋本純一さん、坂瀬川の坂東恒夫さん、一ノ坂の佐々木公男さんの3名にお話を伺いました。


橋本純一さん|昭和7年生まれ(以下、橋本)
今も住んでいる東分で生まれ、育ちました。ほんとは6月1日に生まれたんじゃけれど、ちょうど近くに同じ日に生まれた赤ん坊がおったけん、「今日は日が悪いわ」っちゅうて、わしは6月4日生まれにされた。そんなことが許された時代じゃね。

生まれてこの方、農林業をしてきた。特にすだちの栽培に力を入れてやってきたな。


佐々木公男さん|昭和26年生まれ(以下、佐々木)
生まれ育った一ノ坂に住んでいます。「花を栽培してみたいなぁ」って思って、北島の花屋さんに住み込みで働いていた時期もあるんやけどね。25、6歳の頃には実家から通うようになって、親父らが年寄って仕事が出来なくなってからは家業を継いでいます。

バブルの当時は、一戸建ての住宅を建てるとその周りにぐるりと花や木を植えることがブームやった。ほんで、花屋には居ながら、次第に造園の仕事が増えていった。実家に帰ってきてからは、農業をしたり、主に一人で受けられるような仕事をしながら、広く浅くという感じで色んなことをしています。花も道楽程度には続けているね。


坂東恒夫さん|昭和8年生まれ(以下、板東)
中津川で生まれました。橋本さんとは一年違い。うちは兄弟が多くて12人もいて、わたしはその3番目です。兄は早くから家を出て大阪にいたから、小さい頃は弟の弁当を作っていたね。だからいまでも料理は得意。着るものもあんまりなかったから、草履を家で編んだり、下駄を自分で作ったり、小学生の時分から、そんな風に家事をずっとしてたんでよ。

中学を出てから、百姓仕事を手伝ってきて、他の人の家に奉公に出て仕事をして、人生の半分はこの土地で仕事をしてきたんじゃ。植林から稲づくり、スダチにシイタケから、いろんなことをしてきたな。

一ノ坂の名産シイタケと環境の変化

佐々木わしの住んでる一ノ坂は、農業をするには貧しい土地でな。田んぼやの出来る広い耕地がほとんどなかったけん、自分たちで食べるお米を作るのがやっと出来るくらいでな。ほなけん、何で儲けるかって言ったら、山の木で炭を焼いたり、割り木をするのが主流だった。そのあとは、シイタケやな。

坂東今は一ノ坂でスダチ栽培が多いけれど、それまでは、シイタケ栽培をしてない家がなかったくらいしよったで。

佐々木結局、それしかなかったんと違うかな。土地がなくってね。山は痩せていて、スギやヒノキもあんまり育たん。山に多く生えているクヌギやコナラといった雑木を切り出してきて、シイタケを作る。いまみたいなチェーンソーも当時はなかったから、切り出すのはノコギリを使ってね。

種菌屋から買ってきた、ガラス瓶に入った菌を掻き出して、手で原木に植えていくんよ。切り出した木に専用の機械で穴をくって(開けて)な。今は発泡スチロールを詰めて蓋をするけど、当時は木の皮を丸く抜いて、金槌で叩いて入れるんよ、手では固いから。それは子どもの仕事。

―子どもの仕事?

佐々木お父さんは木に穴を開けて、お母さんは菌を入れて、子どもは蓋をするのが仕事。子どもにはもちろん、お駄賃をやってね。繁忙期は忙しいから、家族総出で分担してな。そりゃ、忙しかったよ。
 

かつて原木シイタケの栽培に使用していた道具。ガラス瓶以外は、どれも菌を原木に植える際に使用する。

現在のシイタケ栽培の様子。白丸が発泡スチロールの蓋で、その下に菌が植え付けてある。(佐々木公男さん宅にて)

橋本「一ノ坂のシイタケは質がいい」ちゅうて、市場でも有名じゃったけんな。
 
佐々木聞いた話では、木箱一箱の出荷で、大工さんが雇えるくらいの値がついていたそう。そんな感じだったから、ほとんどの家がやってた。
ただチェーンソーで木を切る時代になると大量の木を切り出せるようになって、その影響でだんだん木が減って、原木にしてた木がなくなってくるで。そうしたら、八万や地域外のほうまで木を切りに行ったりして、しまいには県外から買いよったんよ。1本200円以上するから、元手がいるようになったり、出荷した半分は経費になったりして、収入も減るで。

何軒かは菌床でシイタケを作るようになった家もあったけんど、菌床は全然作り方が違うんよ。木を切りだしてっていうそれまでの山仕事とは全然雰囲気がちがう。うちはそれに魅力を感じなくなってしまって辞めてしまったな。新たな設備投資も要るしな。
 


昭和30年頃の椎茸出荷風景

鬼籠野の風土とすだちの起こり

―時代が変わって、「すだちの里」として有名になりました。橋本さんも長くスダチ農家をされていますね。

橋本まだ、今のようにすだちを畑で育てるということをしてなかった時、数人が集まって「この地域で何を栽培するか」というて、相談をした。ちょうどその頃、隣の佐那河内(*1)では、ミカンが全盛でな、下分や広野では八朔を作ってた。そのどちらの作物も寒さに弱くてな。昭和56年に極東寒波っちゅうのがあって、元々あった八朔の木なんかもその時に枯れてしもうた。
 
「じゃあ、なにする?」ってなって。出た案が、ユズ、それから、スダチ。ユズは生り年と裏年が激しい。スダチは、古くからある木を持ってた家が5軒ほどあってな。「せっかくだからスダチにせんか」と栽培を始めたんが、昭和31年。当時はまだまだ養蚕が主体だったから、「そんなんできんわ」って笑われたりもしたな。
*1 神山町の東隣、佐那河内村のこと

―地域や時代にはまだまだ馴染まなかったスダチがどうしてこんなに盛んになったんでしょう?
 
橋本鬼籠野は海抜200メートルあるけん、広野からも、神領からくるときにも上がってくる。ここいらでは高地になるから、日中は暖かくて、朝晩は温度が下がってくる。温度差がおっきいっちゅうんが、スダチの香りを強くする。地形や気候とあってたんじゃな。
一番良いのは、南東斜面じゃな。木が凍って、そこに太陽光が刺したらパッと破裂してしまうから、陰になるところでじっくり寒さが緩んでいく、そんな南東斜面で多く古い木が残り続けてきた。山の地形に適してるんよな。
 
佐々木一ノ坂もシイタケだけじゃなくて、かつては田んぼもしてたけど、ほとんどが山の中の田んぼでな。イノシシにやられた時代もあった。ほなけん、田んぼをやめてスダチを植えるところが増えていった。

橋本他には、売り方の工夫があるだろな。冷蔵をするようになって、普通のスダチが赤うなってしまうときに、青々としたものを出荷する。

佐々木そう、冷蔵で収入が取れるようになったけん、そっちの方向でやる農家が出てきた。露地栽培のままでいきよったら、なかなか生活もできんもんな。

橋本それまでも徳島市内の料亭からは、スダチの需要があったんじゃ。うちの古い木のスダチを買いにきよった。そういうのを見てきたから、「需要がある」っていうことは感じて作りよった。そこから、だんだんと大阪の料理屋さんへも広まっていった。作り始めたときは、あんまり相手にしてくれなかったひとたちも盛り上げようとし始めて、そのあたりから、だんだんと変わり始めたな。

鬼籠野の地名と苗字のはなし

―みなさんの話の中で、鬼籠野を4つの地域に分けて呼んでいると伺いましたが、どういった分け方なんですか?

坂東そうやね、南谷(みなみだに)、千歳(ちとせ)、中央(ちゅうおう)、紅葉(こうよう)ってのが4つの地域。東分、中分、西分って公民館がある辺りが、千歳じゃね。中央ってのは、喜来とかのあたり、南谷は中津川とか元山とか谷筋の地域のこと。校歌にもあるよ「千歳の松を~~」って。※ 私の中学生のころに作られた校歌だけどね。
※校歌の一部抜粋

佐々木一ノ坂あたりは、紅葉地域。昭和30年より前の人は「弓折(ゆみおり)」っていうほうが、ピンとくるのかも。弓矢を折って、武士を捨てたという云われがあるから、「弓折」。でも、「弓を折る」ってあんまりいいイメージが無いから、のちに一ノ坂って変えたんじゃ。他にも、今の坂瀬川の当たりは獄門峠って言ったり、その下の川を「はらい川」って言ったり、きっと古い地名はその時代の出来事なんかが関連してるんちゃうかな。 

橋本鬼籠野には、地域ごとに多い名字っていうのがあって、千歳地域は高橋さん、中央にいったら森さん、元山は河野さんが多いね。
 
佐々木そう、一ノ坂地域は佐々木姓がほとんど。姓が偏っているのも鬼籠野の特徴の一つやな。
 
坂東今の地名としては残ってないけど、地域行事なんかではこの4地域の区分は残っとって、体育協会とか、消防団とか今もこの分かれ方で構成しとるな。運動会でもなんでもこの4つで競争するんよ。
 
―改めて、鬼籠野ってどういうところだと感じますか?

坂東生まれ育ってずっと暮らしてきたけど、鬼籠野はええとこじゃよ。地域の団結もあるしな。みなで「これ!」ってきめたら、一生懸命それをやる。すだちの栽培の今までを聞いていても、そんな気風があるしな。まとまりがあるのは、昔から変わらんな。

橋本鬼籠野は昔から貧乏村だったんじゃ。今ではトンネルができているけど、歩く道が主要やった頃は、上がったり下ったり、神領からも広野からも、隣の佐那河内からも坂を上って来なきゃならん。川も細いから、材木を流すにも足りん。だから、炭焼きや割木とかのできることをしよった。

でも、貧乏でも悪いところだけではなくて、案外、地域がまとまるということもある。昔は米の供出って言って主要な食糧は、決められた量と金額で政府に売ることが強制されていた。それを、徳島県で一番最初に出すんが、鬼籠野って聞いたことがある。一丸で協力して、準備するんじゃ。案外そういうところが鬼籠野にはあるんよ。

次回、最終回。神山町でもっとも居住人口の多い神領編をお届けします。社会の移り変わりとともに変わるまち並みの話など、人の集まる場所の変遷を辿ります。

参考資料
『神山町誌 上巻・下巻』(平成17年3月 神山町発行)
『鬼籠野村史』(平成7年3月31日 鬼籠野村誌編集委員会発行)
『神山すだち』映像 株式会社えんがわ 制作

文:駒形良介
制作協力:高橋啓
古写真データ提供:小松崎剛
企画・制作:神山つなぐ公社