特集

Vol.03

7つの地区から辿る
神山のいま、むかし

各地区に残る史料を手がかりに、
長く住む方々とかつての様子を辿ります。
浮かび上がってくるまちの姿とは?

第8話

番外編:後藤町長に聞く、いま、むかし

2023年3月27日 公開

本特集『7つの地区から辿る 神山のいま、むかし』では、各地区にお住いの方々に地域のこれまでについて、ご自身の経験を中心にお話を聞いています。

神山町は町域が広く、また、旧村単位でお話を聞いていることもあり、語られる生活の風景には地域性の違いも色濃く現れています。隣の地域との交流や行き来の程度にも、その土地ごとに差異があり、住んでいる人々に「神山町」という意識が芽生えたことも、ごく最近のことであると分かりました。

今回は番外編として、神山のいま、むかしを良く知る後藤正和神山町長にお話を伺います。

生まれも育ちも神山で、長年町長を務めてこられた、公私ともにこの地を見渡している後藤町長の目に、まちの移り変わりはどのように映っているのでしょうか。自然環境のことや地域社会の様子など、幅広く聞いてみました。


後藤正和町長|昭和26年生まれ(以下、後藤)
後藤です。神山町の神領上角で生まれ育ちました。学生時代を東京で過ごしましたが、それ以外は神山町にいます。十数年間の町議会議員を経て、平成16年から神山町長をしています。

四季と生き物の豊かな山川

後藤幼いころの風景といえば、上角一面が田んぼだった様子ですね。今のまるごと高専の寮や寿泉園、森林組合などが建っているところには建物は一切無く、一面が田んぼ。私は自然観察が得意だったから、よく眺めていました。

大体11月5日に初霜が降ります。すると、上角の田んぼが一面真っ白になる。そこに丹生山のあたりからカラスの大群が降りてきて、落穂を拾う。田んぼがカラスで真っ黒になっていく様子を見るのが好きで、最近はそれを見られないのが残念に思うね。


「道の駅 温泉の里神山」あたりから森林組合、神山まるごと高専の方面を見た現在の様子

ツバメもよく飛来するけれど、3月23日くらいかな。暖かい南方から、明王寺の枝垂桜が咲くころに帰ってくる。ところが最近はこのあたりにイワツバメが一年中棲みついていて、大埜地や上角にも巣を作っている。おそらく神山だけではなく、近隣にも棲んでいるんじゃないかな。同じツバメだけれど、動きが全然違うから分かるね、以前はいなかった。

川にも魚を獲りに行っていました。冬のよく冷えた日に、石の下に潜むじゃこ(オイカワ)を「ゲンノウ」(*)でバーンと打つ。すると、魚たちは脳震とうを起こして、白いおなかを見せて水面に浮かんでくる。それを網で掬って捕まえていた。「寒じゃこ」っていって、時期的に魚たちの食べ物が少ないおかげで、下処理も簡単で、焼いたり唐揚げにするとバツグンだったね。


神山町史では「昔の子供たちがしていた漁獲方法」の1つとしてげんのう打ちが紹介されている。『神山町史 下巻』より

うちの家は山猟や川漁をしていたから、食事の時などにいつも季節や天候の話しをしていました。3世代、4世代で一緒にいる時間が多かったからね。気象と生活、あるいは趣味だったり、生活と周囲の環境や気候、生き物が密接に関係していた。逆に気にしないことのほうが不自然だったね。

最近では、11月5日に霜が降りることがなくなったし、渡り鳥の飛来の時期が変わってしまった。それは、神山単体のことではなく、地球規模での人間活動が変わったし、気候も変化している。でも、以前は感じられた季節の移ろいを感じられなくなっているのは、残念に思いますね。

5年くらい前の10月31日頃、暖かかったのが急に冷え込んで雪が降った日があったのを覚えている?その時、メスカマキリが産卵できなくて、道の上にたくさん死んでいたのを目にしました。気温の乱高下についていけていなかったんだろうね。

最近は、四季が二季くらいになっている。私は大変なことが起きていると思うけれど、多くの人はそんなことを気にかけずに暮らしているよね。今は平和でのほほんと生きることもできるからね、「自分の暮らしが困るわけじゃないし」って。そこに危機感を感じるね。

* かなづちの一種。石をたたいたり、のみをたたいたりする道具。後藤町長によると、身近なもので柄を作ったり、自作していたこともあったとか。

外の世界をみて気づいた神山町の状況

後藤昭和60年に、町の視察で大分県の大山町(現日田市大山町)に町内の議員さんや役場の職員と一緒に視察にいったんだよね。現認定NPO法人グリーンバレー理事の岩丸さんと私はその当時は若手で、もともとは行くメンバーではなかったんだけれど、参加者にキャンセルが出て、偶然にも連れて行ってもらえて。

そのとき大山町では「梅栗植えてハワイへ行こう」というキャッチフレーズで農家の収入を上げるための取り組みに力を入れていました。今でいう6次産業化の先を行く取り組みでした。

どうしてこの視察が印象に残っているかって、梅や栗など、神山で作っている農産物の傾向や育てている風土と似てたんですよね。だから、案内していた担当者に「神山町と似てますね」と言ったら、「そうです、我々も以前、神山に視察に行きましたから」って。それを聞いてなんとも言えない気持ちになったね。同じものを作っていても、農家だけではなく、役場や農協など関係する人々が手を組むことで、こんなにも一つの産業が盛り上がることがあるんだって。だから、帰ってきてもその時の光景が頭から離れなかった。

一方で神山の状況はどうだったかというと、高度経済成長期から、バブルの時代へと向かう中で、神山も御多分にもれず都心へと目が向いていた。徳島の中心地だけではなく、大阪、名古屋、東京に就職をする人も多く、人口がぐっと減っていったのもこのころ加速した印象があります。経済的にも元気があったり、魅力的に見えていたんだろうな。

元気のある都会が魅力的だったのですね。町長自身も学生時代に東京で過ごされたそうですが、そのまま東京に留まろうと考えなかったのですか?

全く考えなかったね。私には合わなかった。気質かな(笑)今でも出張などで都会に行くけれど、全方位が人工構造物という空間に気持ちの悪さを覚えてしまうくらい、その光景は異様だった。地下鉄なんかでも、あんな大きな穴を狭い地域にたくさん掘っているということを想像しちゃうとなんとも居所の悪い感じ。やっぱり身の回りに、田畑や山や川なんかがある環境で育っているから、自分にはそちらのほうがあっているなって思う。

でも帰ってきて神山が明るかったかというとそうではないね。2代目町長の松本さんの時代に人口推計を出していて、それを聞かされていたから「見通しはだいぶ厳しいな」という印象があった。子どもの数も減っていったし、学校も各地区では成り立たなくなっていった。どないぞせないかん、っていう意識はあった。

町民全体のことを考えても、住んでいる人の目線を地域に向ける、というのは町長になってやらなきゃいけないことの一つだと思っていました。当時、役場職員の中に写真を撮るのが得意だった方が居たので、神山の名所や風景、行事の様子なんかをきれいに撮影してもらいました。何かの集まりがあるごとに、それをを大きく引き延ばして持って行って「きれいでしょ」って。「この景色を見物するのに何万人って人が来ているんですよ!」と、私が言って回ることを繰り返していましたね。まずは、自分たちの町を再認識することや、良いところを感じることが大切だ、と。

変わらずにあってほしい「神山らしさ」

自然環境や社会状況などは変わってきていますし、これからも変わっていきそうです。そのなかで、神山町の変わらずにいて欲しいところはありますか?

後藤そうだね、人々の寛大さや、寛容なところは、変わってほしくないけれど、知らず知らずのうちに変わっていくのかもなぁ。

例えば、こちらに移り住んできた方が近くに来た時の話し。始めは「おはよう」や「こんにちは」を言ってもなかなか返ってこなくて。その時は、「どうしたんだろう?」って違和感がありました。それでも負けずにあいさつをし続けた。そうしているうちに、いつのまにか挨拶を返してくれるようになってね。私は、近所同士挨拶を交わすことがあたりまえの生活をしていたけど、都会から新しくこの町に入ってきた人にとっては、それが常識ではなかったのかもしれないね。常識が違うのは、環境が違えば当然なことですよね。

多世代で暮らすことが当たり前だった時代には、そのような教育が家庭内で自然とされていて、習慣や伝統は受け継がれていく。けれど反対に考えると、そればかりではその地域に変化は起きないよね。移住を決めて来てくれた人たちは変化をもたらしてくれるわけだから、それはチャンスととらえることも出来るかもしれないね。変わってほしくないところもあるけれど、そうやって変わっていけることもいいのかもね。

移住してきた方だって、いつまでも「移住者」と言われることはいやだと思う。常識が違うというところで、はじめは逆に失礼をするかもしれないけれど、上手く一緒に暮らしていけるといいなと思っています。

うちにはお遍路さん接待をするときのお皿があります。こういったものはどこの家でも昔は常備していた。長い間、お遍路さんをもてなしてきたという証拠だよね。そういった習慣もあって、寛大さとかおもてなしの気持ちが生まれやすかったのかもね。自分たちとは違う人やモノを受け入れるという人間の原点みたいなものは、このまちの人たちのいいところだし、これからも変わってほしくないね。

文:駒形良介
制作協力:高橋啓
古写真データ提供:小松崎剛
企画・制作:神山つなぐ公社