特集

Vol.03

7つの地区から辿る
神山のいま、むかし

各地区に残る史料を手がかりに、
長く住む方々とかつての様子を辿ります。
浮かび上がってくるまちの姿とは?

第7話

神領地区、神山町農村環境改善センターにて

2023年10月20日 公開

最後に訪れた神領地区は、地理的にちょうど神山町の真ん中に当たります。役場や消防署、農協の支店に学校など、町の様々な機能が集まっています。中央に位置する大粟山には、食物の神様である大宜都比売神(オオゲツヒメ)が鎮座する上一宮大粟神社があり、その他にも神社仏閣が数多く存在します。

神山温泉や道の駅など、町外からの来訪者の姿が多くみられ、近年では、サテライトオフィスや神山まるごと高専など、新たな試みが始まる場所にもなっています。様々な人の行き交う神山町の「港」のような神領地区で変遷を見てきた3名に加えて、本特集の監修・高橋啓先生も交えてお話を伺いました。
 


松本吉郎さん|昭和13年生まれ(以下、松本)
西野間に住んでいます。大学では農業の勉強をしたり、各地で柑橘を中心に果樹の勉強をして、家に帰ったのが昭和38年頃。それからは、家の手伝い、いわゆる「てご(*1)」じゃね。梅や橙(ダイダイ)を育てていた。昭和53年に大きな寒波があって、山に植えていた果樹が雪の重みでなぎ倒されて全滅してしまった。そのあとは、食い繋ぐために、豆を作ったり野菜や花卉を作ったりしながら農家をしてきました。
*1 てご…諸々の仕事、作業を手伝う意味の言葉


谷渕トミ子さん|昭和14年生まれ(以下、谷渕)
阿川・宮分の農家で生まれ育ちました。子どもの頃は通い作をする親にくっついて、片道2時間くらいかけて上角の田んぼまで歩いてきていました。お弁当を食べるのを楽しみにしてね。

神領の大久保には、昭和33年に嫁いだのをきっかけに来ました。 神領に来たら、勤め人の家だから楽できるんかなぁと思っていたのに、全然違いました。大きな力仕事は男の人がするけれど、田植えでも、昔は自分く(家)で稲を立てるところからやっていたので細かな仕事はいっぱい。やることはたくさんでよう働きました。婦人会活動や生活改善グループなどにも入って、加工品や裁縫を教えてもらったり、染め物なんかも勉強しました。


海老名幸祐さん|昭和15年生まれ(以下、海老名)
私は、神領北出身で、こまい(小さい)ときは勉強するのが嫌だったので、父親に「地下足袋買ってほしい、仕事するわ」って言いよったんです。それでも、親になだめられて、神山分校(現在の城西高校神山校)に3年通いました。
 
高校時代は、戦後の「食糧一割増産運動」っていう国策があって、麦や米といった主食をとにかく、たくさん作るというのが目標の教育を受けました。同級生は、畜産や果樹を選んで学ぶ人が多かった。でも私は、親父さんが花の栽培をしていたこともあって、同じく花の栽培をはじめました。米や麦を育てるほど、広い土地もなかったしな。食糧が不足している時代に、食べ物にならん花を作ってたので笑われることもあったな。


高橋啓さん|昭和13年生まれ(以下、高橋)
僕は長い間神山を出ていて、帰ってきてちょうど11年目になります。まだまだ戸惑うことも多いんですけど、生まれ育った地の歴史、先人たちがどのようにこの神山を創ってきたのか、とても関心があります。最近では、歳を取って、親しい友人が一人去り、二人去り寂しい想いをしています。本日は、この特集の編集に関わる一人としてオブザーバーの立場で、参加します。

戦中戦後の子ども時代
 

松本終戦の時は、小学校(当時の国民学校)の一年生。空襲警報として神領では蒸気の汽笛が鳴る。すると、みんなで学校近くの家の大きなやぶに逃げ込んで、帰っていいと言われるまで、子どもたちはそこで遊んでた。小さいナイフで竹を切っておもちゃにしたり、呑気なもんよな。
 
高橋やぶの中にいると、頭上をB-29(アメリカの爆撃機)が飛行機雲を引きながら、大阪方面に飛んでいく様子が見れましたね。
 
松本ちょうど神領あたりで東西南北と分かれて飛び立っていく。ここいらに直接攻撃されることはなかったけれど、子どもはそんな事情わからんでぇな。爆撃されるかもと思って、何度も授業中に逃げたわ。
 
学校でも、当時みんなが食糧難だったこともあって、上級生が運動場を畑にしてました。冬は麦畑、夏場は芋畑にしてという具合に。時々学校が「明日は弁当持ってこんでええけん」って言ってくれて、お芋を炊いて、弁当替わりに一個ずつくれよった。給食も無かった時代だから、特別な日やね。
 
高橋土も運動場の土だから固くて。芋も筋芋っていうんかな、痩せて固い芋でした。
 
松本鳴門金時みたいな甘くておいしい芋ではなくて、護国芋っていって、とにかくたくさん獲れるのが大事。質より量だね。お米だって、今と比べたら美味しいものではなかったかもしれないけれど、子ども心には、食べれるものはなんでも美味しかった。


昭和初期の神領小学校。昭和56年に大埜地に移転するまでは、神領・中津に校舎があった(現在の農村環境改善センターの場所)。
 

海老名当時、私は幼稚園に通っていて、大久保に住む岸さんが先生をしてくれていた。運動会では、岸先生がサツマイモで芋団子を作ってくれて、柿を半分入れて、競争の景品を作ってくれました。そんなことを覚えとります。

高橋戦争末期には学校に通うのではなく、各地区に分散して教室を持っていた時期もあるね。例えば私ら寄井や野間の子どもは、本野間にあった牛などの家畜の取引所を教室にしていた。小野や上角もそれぞれに教室があったね。
 
松本物資も少なくて、勉強するためのノートもそうそう無くってね。当時の担任の先生の家が酒屋だったから、一升瓶に張ってあるレッテルをノート替わりに子どもたちにくれたりしていたね。
 
ある日、当時役場に勤めていた親父が「おい、戦争負けたぞ!」って帰ってきた。戦場で人がたくさん死んでいたことは子どもながらに知っていたから、戦争が終わったことを喜んだのを覚えてるな。
 
海老名私は、幼稚園に通っていた頃に終戦を迎えて、学校に上がったのは戦後です。私の時には、国民学校から神領小学校になっていました。終戦後、人が戻ってきたりして、クラスも学年に3クラスあって、100人以上は同級生がいたな。

昭和29年頃の神領小学校の様子。明治ごろの開校当時から、神領・中津に建てられた校舎は、生徒数の増加に伴い新改築を重ねてきた。

昭和29年頃の神領小学校にて、子どもたちが講堂に集まっている。

村を育てるための政策「官行造林」

海老名神領には、神領村だった時代に村有財産として持っていた山林を、町村合併後も「神領財産区(*2)」として、管理・運用をしてきたという歴史があるな。

*2 財産区とは、市町村の一部地域(住民)が、山林、宅地、原野などの特定の財産等を保有する場合、それを管理するために設けられる特別地方公共団体のこと。

松本はじまりは、徳島のお殿さまの蜂須賀氏がみんなに土地を開放してくれたんよな。この辺で言うと、山の上の不便なところがその土地。

高橋江戸時代には、山林原野のほとんどが、統括する藩の持つ藩有地(藩有林)でした。所有権は藩にあるけど、土地土地のお百姓さんに下草刈りをしたり、材木を切ったりする利用権があった。

明治期以降は、藩有林が開放されて、そのほとんどが国有林になりました。国有林のほかに、都道府県や市町村が所有する公有林というのもあります。これが、神領の北地区や谷、野間など昔の部落にあったという記録が残っています。部落が所有するようになって、それを財産として持っておった。

そういう土地に対して、大正9年に旧公有林野等官行造林法ができたんですね。国が造林し、管理、維持していくという法律。下草を刈ったり、間伐したり、新しく杉苗を植えるということです。それにはお金が要るから、費用を国が建て替えて出しましょうと。その代わり、ただでは駄目で、その対価は将来、材木として伐採して得た費用などから返してもらうというもの。

公有林を個人に分けた地域もあるけれど、神領では明確にそれを公有林として維持していた。この収益で神領村を成り立たせていこうという明確な意志を示していたんです。

官行造林(*3)の理念については、谷渕さんのおじいさん、谷渕村長が「ヒノキとか松を植えて、そこから得られる収益で神領村のこれからを成り立たせていこう」ということをよく提唱されていた。学校行事などで村長さんが話す機会には決まってそのような話をされるので、子どもながらに谷渕村長が出てくると「また、官行造林の話をするぞ」って思っていましたね。

谷渕嫁いで来たときに、周りの人によう言われました。「おじいさんが、官行造林、官行造林てよう言よったよ」って。
 
*3 神領村では、大正初年ごろより、地域有林の整理統一事業への気運が村長はじめ理事者を中心に高まり、植樹・造林によって村財産の基盤を固め、村民負担を軽減するなど、地域有林の整理統一事業の上に新しい村づくり、「自治の理想郷」の建設への努力が続けられた。(『神山町史』下巻第7編より)

神山町の中での神領はどういう存在?

松本神領って良くも悪くも何でもできる。だから以前からまとまりがなかったんじゃないかな?例えば、鬼籠野だったらスダチが採れるよね。阿川だったら梅。神領は、土地柄もいろんな地区の中間点で、スダチや梅も採れるけれど、一つの名物っていう感じでもない。いろんなものがあるから、神領だけが特化した産物ってないんじゃわ。
 
海老名いろんなことができたり、人もそこそこおったから、「これをみんなでせんか!」っていうリーダーシップを取りづらいのかもしれんね。
 
谷渕私は、子どものころは阿川にいたけど、大会とか発表会みたいにみんなが集まるのは神領の講堂だったんです。そのときは、学校の下にお店があって、子どもながらに「神領に行ったら、なんやかんや買えるなぁ」と感じてました。
神領にお嫁に行くときも、周りの人たちから「いいとこに行くなぁ」って言われた。阿川から見ると人も多いし、いろんなものがある、別の地域から見るとそんな印象だったんじゃないかな。

(参考)昭和33〜34年頃の婚礼の様子。写っているのは、寄井橋。提供_河野自動車商会

海老名今だからこそ町村合併をして「神山町」ってひと括りになっているけど、子どものころは鬼籠野まで遠足に行ったら、そこの子どもとケンカになるくらいの対抗意識があったな。それぞれの学校が「あそこは○○学校じゃ」って罵りあってた。

松本そりゃ、子どもからしたら、自分らの学校や地域が一番だからな。神領のもんは阿川や左右内の学校にケチをつけるし、逆もあったと思うよ。「神領の学校なんて」って。今では考えられないような隔たりがあったよな。

海老名今では中学校も神山中学校一つになって、小学校も上分や下分、左右内の子どもが神領小学校にくるようになって。自分は神領に住んでいるから恵まれていると思うな。

いろんな地区から小学生が来るようになって、「神領小学校の校歌を変えんか」っていう意見が出た時もあった。それに対して「いやいや、神領に来たんやけん、神領小学校の校歌を歌うのが当り前じゃ」っていう反発の声も出て。その時にわしが思ったんは、神領小学校の校歌が消えてなくなるわけじゃないけん、新しい時代に校歌が変わったってええで、と。いろんな地域に住んでる子どもが通う小学校になったら、歌うもんも変わるわな。「神山町」になるっていうのは、そうやって変わっていくことじゃないかなって。
 
谷渕最近は私の住む大久保へんでも、こどもの声が聞こえない。昔はみんなでぞろぞろと歩いている姿を見かけたけれど、今は、車で送り迎えをしたりすることもあるし、姿を見かけないのはさみしいな。

高橋今回のようにみなさんの話を聞くなかで、今まで知らなかったことなどいろいろ教えてもらうことができ、本当に楽しいひとときを過ごすことができました。その上で、改めて大正から昭和にかけて官行造林を進めた神領村の政治の姿は、一つの特徴ではないかなと思う。 官行造林をやったのは、神山7地区のうちで神領だけなんですよね。そういう未来を見据えた政治が営まれたということは、神領の特長かな。

一方で、なぜ、神領がそういう計画を立てて、大きなビジョンを持つことができたんだろうか。神領っていう地区が神山町全体でどのような位置を占めているのか、わかったようで、わからない。まぁ、難しいんですよね。これからも勉強をして、見続けて行きたいと思います。


参考資料
『神山町誌 上巻・下巻』(平成17年3月 神山町発行)
『神領村誌』(昭和35年7月1日 名西郡神領村誌編集委員会発行)
『神領財産区誌』(昭和58年3月15日 神領財産区誌編集委員会発行)

文:駒形良介
制作協力:高橋啓
古写真データ提供:小松崎剛
企画・制作:神山つなぐ公社