「まちの外で生きてます」#24 東尾厚志さん

なんでも2025年7月15日

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投稿者:やままち編集部

〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和、神山町出身の4名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、徳島市で働いていたり。

「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。

紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。

町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第二十四回は、神領出身で今は徳島市で暮らす東尾厚志さん(53歳)に話を聞きました。

―神山での思い出を教えてください。
東尾
 出身は神領の上角。神領小学校の同級生は24人くらいだったと思います。近所にも何人か同じ年頃の子がいましたね。私が小学生のころは木造校舎だったんですよ。今の改善センターがあるところで、小学三年生まで過ごしました。途中からピカピカの3階建ての校舎になって、みんなが喜んでいたのは何となく記憶にあります。前は二階建てで真ん中に講堂があったんです。階段の質感まで思い出せるほど印象に残っていますね。体育館やプールは、校舎ができた後にできました。昔は、今の中学校の脇のグラウンドのあたりに町民プールがありました。オリンピックのころにできたんじゃなかったかな。そこは、今の小学校ができるときに潰して私が5、6年生の時に新設。そのため、それまでの間水泳の授業は小学生も川でやっていました。良かったのか分かりませんが(笑)、川辺に鳴門金時を植えて収穫して、みんなで焼いて食べた思い出もあります。

(写真/神領幼稚園の卒園式後、町民グラウンドで母と撮影)

(写真/神領小学校2年生。このころはまだ旧の木造校舎に通っていた)

 

(写真/神領小学校の新校舎を表紙にした当時の広報かみやま)

東尾 当時は少年野球をやっていたので、放課後はだいたい練習の思い出。あとはスポーツ少年団ですかね。今の子達に話してもあまり通じないけれど、当時は「対 寄井」っていうメンタルを幼少のころから叩き込まれていて(笑)、休み時間にドッジボールをしても“奥”と“下”で分かれるような感じでした。

東尾 中学校は70人くらい。野球部だったので、中南先生は特にお世話になった先生です。陸上部と掛け持ちだったため、夏は大変でした。補習して陸上して野球行って、その後スポーツ少年団。今思えば、それに付き合っていた先生方も大変だったでしょうね。学校以外では、父と魚釣り行ったり。秋になったら鮎喰川にがんちゃ(モクズガニ)を捕りに行っていました。

(写真/中学生のころ、体育の水泳の授業は鮎喰川……!)

(写真/幼馴染の江口さんと撮った一枚。おそらく修学旅行の時?)

東尾 立志式の時のことは、うる覚えです。書道で四文字熟語を書くのですが、私は「堅忍不抜」と書きました。そのころの将来の夢は、何だったかな。確か、コンピューターが出始めたころで、そういう関係の職業を書いたような気がします。中学生くらいになるともうプロ野球選手にはなれないなとか気づくころなので、割と現実的なことを書いたと思います(笑)。コンピューターを扱うような職業が、当時は眩しかったんでしょうね。

―中学卒業後は、どのように進路を選んでいきましたか?
東尾
 高校は総選(総合選抜高校)で城南高校に。城南が第一希望だったのは、姉が城南に通っており城南の話を聞いていたので、何となく良いかなという気持ちがありました。あと城南には「FS」という学校のイベントがあるんです。ファイアーストームといって体育祭終了後に生徒が炎を囲んで歌いながら駆け回り三年生を送り出す行事で、楽しそうやなと思っていました。坊主にするのが嫌で野球部には入らず。野球部の顧問が古典の先生で毎日言われましたけどね(笑)。高校で野球を続けた神山の同級生は一人だったかな。中南先生に申し訳なかったな。心のどこかで野球していたら良かったなとは思いながら……。仲の良い友達が誘ってくれてバスケ部に入っていました。

(写真/城南高校時代の東尾さん。FSが有名な体育祭にて)

東尾 また、高校生になると学校の近くで下宿生活。神山を離れることになったのですが、私の場合は姉がいたので、何となく高校生になるとそういう生活になることは想像できていました。同級生も城南いたので、特に寂しいなどということもなかったですね。よく神山は市内の子から馬鹿にされるみたいな話がありますが、私の時はなかった。神山が“奥”すぎて、皆知らないので何も言われない(笑)。今は道路が良くなってトンネルもあるけれど、そのころは市内から車で1時間かかっていたし、その辺りの感覚が今と違うのだと思います。そういえば昔、「神山よもやま話」っていう冊子があって、それに面白い話が載っていました。神山の子が恋人を車で連れてくるとき、養瀬の旧のトンネルの脇が一番の難所だ、みたいな(笑)。神山のあるある話が載っていて面白かったです。高校の時に、神山の家が立ち退きになって、一度実家が石井に移ったため、高校生活の途中から、石井の家から通っていました。汽車通学も楽しかったです。駅ごとに可愛い子を見つけて皆でギャーギャー言いながら(笑)。

東尾 当時、将来のことは全然考えていなかったです。学校の勉強も興味なくなって。どうしようかなって思っていたら、担任の先生が推薦の話をもってきてくれて大阪の四天王寺大学文学部社会学科に進学することにしました。仏教の大学で瞑想して写経をかくという、珍しい授業もありました。初めての大阪での生活。水がまずくてびっくりしました(笑)。洗礼を受けましたね。大学ではソフトボールをやっていました。野球をやりたかったのですが野球部がなく、学籍番号が隣の子に誘われてソフトボール部の練習を行ったら着替えさせられてそのまま入部。それからはほぼ練習。関西リーグでも結構強かったんですよ。やっぱり心のどこかで、野球してなかった後悔というのがあったのかな。

(写真/四天王寺大学ではソフトボール部に。関西リーグでも好成績を残した)

(写真/大学三年生の時には、ハワイに語学研修へ。写真はダイヤモンドヘッドにて)

東尾 私たちの時はちょうどバブルで、部活の先輩も就活で企業に行ったらお土産いっぱい抱えて帰ってくるような時代でした。内定10社は当たり前。なので就職活動は「何か楽しそう」くらいに思っていました。私が就活するころにはガタッとなり始めたくらいですが、その後の人達よりはましだったと思います。ソフトボールで来てほしいと言ってくれた会社もありましたが、体も痛いし、難しいかなと思い、徳島に帰って来ようと決めて就活。徳島市内の会社、シンクス(現・アクサス)のスポーツ事業部に就職しました。アレックススポーツでは店舗に立ったり、高校の野球部の面倒をみたり。17年間勤めました。

―今の仕事を始めることになったきっかけは何ですか?
東尾
 今は、徳島市内で「遠近(をちこち)」というお店をしています。扱っているのは、民藝や手仕事のもの。そうしたものに触れるようになったのは、前職で携わった家具や雑貨のお店の仕事からです。働いてしばらくしたころ「俺やばい」って思い始めたんですよね(笑)。あんまり将来のことを考えて来なかったなぁと……。そう思うようになったのは、アメリカの9.11のテロがきっかけでした。それより以前ニューヨークに行ったことがあり、あの事件があった後、本能的にこれは現地に行かなきゃと思ったんです。それで、テロの半年後にニューヨークに行きました。破壊の現場はあまりに衝撃でショックなものでした。帰ってきてからも、会社行く車の中、ジョン・レノンの曲を聴いたらなぜか涙が止まらなかったり。今のままじゃだめ、何かせなあかんなと思うようになりました。その時から、NGOのプラン・インターナショナルに少額ですけど協力を続けています。

(写真/二度目に訪れたニューヨーク。ようやく自分の方向性が見えてきたころ)

東尾 ニューヨークでの体験後、鳥取に出西窯という窯元があると知って行ってみました。広島方面には家具の展示会などでよく訪れていたので。そこで見た景色が対照的だった。ニューヨークの破壊の現場と創造の現場の対比がすごくて……。そして、ずっと創造の現場の方が良いなぁと思いました。ものづくりの現場での体験を知らせたい。商売の勉強をしようと資格を取ったりということを始めていましたが、その時はまだ独立しようとは思っていませんでした。窯元の人に自分でやった方が良いと言われましたが、その時は「会社員としての可能性を追求したい」と面白くないことを返してしまいました(笑)。今思えば、そうしないと本質的な付き合いができないということだったのでしょう。会社の場合は、せっかくできた人とのつながりも部署の異動で関係が切れてしまうことがありますから。つくり手と関係性を築き、つながってやりたいのであれば、自分でやる方が良いと思います。しばらく会社勤めをしましたが、39歳の時に独立。徳島市の末広でお店を始めました。

―東尾さんのお店「遠近」で扱うものは、どういう視点で選ばれていますか?
東尾
 今はご縁がある作家や窯元だけ。良いなぁと思う人は手が届かないケースも多いのが現実です。ある窯元に行くと、帰り際に奥さんが「もう来ないで」と言うんですよ。つくり手が高齢な場合、数もつくれないし、そういったところはもう決まった取引先があるので。手の仕事のものって思っているよりつくれないんですよね、タイミングが合わないと。そういうのが最初のうちは分からないで工房や窯元に行っていたので、いろいろな方に迷惑をかけたのではないでしょうか。自分の商売のキャパ的にもあまり多くの人とも付き合えないから、今ある縁を大事にしながら続けていきたいなと思います。

東尾 お店をしていると、ものを見ていると「これこの人が好きそうやな」とお客さんの顔が浮かんだりするのです。「あの人買うだろうな」とか。そういうのは幸せなことですね。最近は個展をした時に、いくら売れるかよりいくらその作家に払えるかということを今は大事にしています。対会社の場合はそういうことはないのかもしれないけれど、売り手とつくり手、お互いに生活を支え合っているという実感がすごくあるのです。窯元をまわっている時は、「これを自分の店に置きたい!」と、どうしても矢印が自分の方に向いているんですよ。でも、大事なのはその人の生活を支えられるかどうかだと思うようになりました。

―今、神山との関わりは?
東尾
 2013年に、D&DEPARTMENTのデザインガイドブック、d design travelの徳島版をつくる際、冒頭部分の制作を県の事業でやっていて手伝いました。「d design travel WORKSHOP」という名前で、最後の部分で神山のことをちょっと書いたり。店を始めたころは神山と関わると思っていなかったのですが、それから神山の人や取り組みとつながるようになりました。自分が生まれ育った町なので思うことはいろいろありますが、神山にいつ呼んでもらっても良いように準備はしておこうと思います。

(写真/2013年、えんがわオフィスで使用するテーブルを製作。このころから仕事で神山とつながり始める)

(写真/フードハブプロジェクト立ち上げにあたり行われた、サンフランシスコへのスタディツアー。新しい扉が開いた旅だった)

(写真/モノサスが運営する東京・代々木のFarmMart&Friendsで、リヒトリヒトの靴職人、金澤さんと)

 

 

インタビュー・文:大南真理子


質問!まちの外で暮らす先輩にあれこれ聞いてみよう!(中学生)

Q:お店の名前を「遠近(をちこち)」にした理由は何ですか?
東尾 本当はカッコいい横文字の店に憧れていたのですが、手仕事の価値を伝えるなら「感じ」のいい名前かもなあと思って。今はとても気に入っています。

Q:人と関わる上で大切にしていることは何ですか?
東尾 ベクトルが自分の方だけに向かわないようにすることです。こりゃ難しい。近江商人の「三方よし」という言葉があるのですが、売り手も買い手も世の中も良くできたら素敵ですね。

Q:今からやってみたいことはありますか?
東尾 今、「めぐる、」という徳島の郷土誌で連載記事を書かせていただいてるので、これをまとめて書籍にしたいです。あとは神山でお店(ギャラリー)をやりたいですね。

Q:学生時代の一番の思い出は何ですか?
東尾 総じて部活動かな。中学の頃は野球部でした。中南先生の指導は厳しかったけど、今の自分があるのはその指導のおかげだと思います。

Q:9.11のテロを受けて、ニューヨークに突き動かされた理由を教えてください。
東尾 実際にこの目で見ておきたい衝動に駆られました。憧れの街に対して自分の気持ちを示したいという感じだったかなと思います。実際の現場は巨大な工事現場のようで、街路樹にカーテンやビルの破片が沢山残っていました。

Q:独立したての時は、どのような気持ちで生活していましたか。
東尾 なんとかお店が続くように、なりふり構わず挑戦しようと思っていました。 あとは今も変わらないけど、社会保障費や税金ってなんでこんなに高いの(涙)です。

 

Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
編集部とりまとめ:大家孝文 

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やままち編集部

やままち編集部は、神山町出身の4名(大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)

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