特集

Vol.03

7つの地区から辿る
神山のいま、むかし

各地区に残る史料を手がかりに、
長く住む方々とかつての様子を辿ります。
浮かび上がってくるまちの姿とは?

第1話

上分地区、川又の大塚旅館にて

2022年9月30日 公開

上分は、美郷(吉野川市)に続く「北谷」、剣山(美馬市)に向かう「中の谷」、南方(那賀町)に伸びる「南谷」の3つの谷によって構成されています。そして、各谷の集合点にある川又には、川床のような造りが特徴の家々が並ぶ集落があります。現在でも、公民館や郵便局があり、人の行き交う交差点のような場所になっています。

川又商店街の中、中津や江田といった南谷方面に向かう橋のたもとに、大塚旅館という宿屋があります。現在(2022年9月時点)は営業していませんが、その看板を目にしたことがあるという方は多いのではないでしょうか。

今回「上分のことを知りたい」とお声かけさせていただいた4人のうちの1人、竹内さんはこの旅館のご主人です。竹内さんのご厚意により、旅館の1階・大広間にお邪魔して、お話を伺うことができました。

「子どもの時は橋梁近くから飛び込みをしたり、この場所は近所の子供たちの遊び場だったんです」旅館の裏に流れる鮎喰川の景色を眺め、思い出される当時の様子を話しながら、会は始まりました。


山田勲さん|昭和24年生まれ(以下、山田)
私は、上分中津で生まれました。徳島市内の高校を卒業したのち、1年間、林業の研修を受けて、上分に戻ってきました。そのままずっと神山に居ます。戻ってきてからは、地域のことや家業をしながら、『四国山岳植物園 岳人の森』のオーナーをしています。


佐藤信弘さん|昭和34年生まれ(以下、佐藤)
南のほうに江田という地区があってそこのお寺、妙法寺の住職をしています。
上分の昔の事を教えて、と言われたので、「子どものころはようけ同級生がおったなぁ」とか、「川又にはどんなお店があったかなぁ」とか、思い出しながら今日この場に来ました。


竹内義治さん|昭和10年生まれ(以下、竹内)
2年前まで大塚旅館という宿をしていました。2年前におばあさんの体調が悪くなって、今は空き家にしています。(とても空き家と思えないくらいきれいにお部屋を維持されていました)

最近は自動車の時代になって、日帰りでも十分帰れるようになっています。そんな交通状況の変化によって、お客さんが少なくなってゆきました。そんな時代背景もありますね。


粟飯原明生さん|昭和18年生まれ(以下、粟飯原)
川又郵便局の前に住んでいます。生まれは大阪で、3歳の時に父の戦死で、上分に来ました。15歳で中学校を出るまでは上分に居て、徳島の高校に進みました。大学時代や、仕事に就いて60歳で定年をするまでは、全国を転々としました。その後、だいぶ時間はあいて帰ってきましたが、もともとおじいさんが医者をやっていたつながりもあり、色々な方とお付き合いをさせてもらっています。今は神山町の文化財保護審議委員も務めています。

賑やかな子どもたちの姿

―まず、みなさんの子ども時代のことをおしえていただけますか?

山田昔の上分ですが、年配の人は知ってるかと思うけど、人で人で(人が多くて)すごかった。小学校600名、中学校300名は居たと思う。そんな人数だから、運動会のときなんかは、出れる競技も限られていてね。今のように保護者参加の種目なんてなかった。見物は山の斜面までゴザを敷いてびっしりと。運動会の時期が近くなると、紅白の帽子や足袋が、川又商店街のお店の軒先に、吊るしたり、並べられていた。


昭和35年上分小学校入学式の際の記念撮影の様子

山田イベントだと神社のお祭りも人がいっぱいだったな。

佐藤そうそう、お祭りは、どれもすごかった。けんか祭りというのがあって、西の方の山を上がっていくと東宮さん(殿宮・東宮神社の呼称)という神社があるんだけど、子どものころは歩いて行って、江田から東宮さんまで6時間かかりました。そこでけんか祭りをみて、帰りは5時間くらいかけて帰ってくる。道中人が多かった印象です。

子どもの時の記憶でいうと、桑の実がうまかった。実を食べると歯が赤黒くなって、すぐに「食べたな」って分かってしまうんだけれど、子どものころはこの桑の実とユスラウメはご馳走中のご馳走でした。

それと、上分も屋島(*1)くらいの標高があるといわれてるんだけれど、もっと上へあがった北谷に空峰という処があった。ほんまに空の峰なんよ。そこにリンゴがあった。リンゴと言ったら青森とか寒いところのイメージだけど、そこは寒かったから、リンゴがなっていて、それが美味しかった。

食べる話ばっかりだけれど(笑)。

*1 香川県高松市屋島のこと。標高は約250m〜290mくらい。上分殿宮付近で330mほど

粟飯原私の子ども時代は、朝鮮戦争中だったこともあって、戦争ごっこみたいなことを友達としていたことを覚えているね。近くにある神山製材の材木置き場とか広いところに入って行っては、そこでよく遊んでいた。

それと、当時の上分小学校では、トイレの掃除を子ども達自身でしていました。汲み取り式のトイレなので、中から汲み取ったものを二人で担いで。校舎のうらに「興村亭」(*2)といって、果樹を作ったりする畑のような土地があって、そこの肥料にするんよ。担いで山を登ると、ぱっちゃん、ぱっちゃんと顔にかかったりもする。ちょっと汚いけれど、大変な思い出だったので、そんな瞬間もよく覚えています。

*2 地域の興隆を目的に上分では「興村教育」を勧めていた。その1つとして、学校を山村振興の拠点にしようと、学校に隣接する土地を開墾し、果樹園を作った。耕作、剪定、消毒等は教職員や児童生徒が行った。昭和13年にはあずまやを建築し、児童が話し合いを出来るよう椅子や机が設置された。村内が一望できる景勝地だった。(『上分小学校百年史』より)

上分にはたくさん人がいた?

―高橋啓さん(※詳しくは、第0話を参照)が1809年の棟付帳から、当時の人口や牛馬数を集計しました。それによると、上分には、なんと2800名もの人がいて、800軒もの家数があったそう。加えて、家数とほぼ同数の牛馬が暮らしていたと記録されています。

佐藤おお、人の数は神領どころじゃなかったんだな。たしかに人から聞いたことがある、「殿宮は大きな集落だった」って。

山田東宮さんの門前町だったことも大きいんだと思う。いわゆる信仰の中心地のような役割だな。


東宮神社のお祭り屋台の様子

粟飯原もっともっと前の話になるけれど、平安後期や鎌倉時代、安徳天皇が一時避難で通っていったのが東宮さんという謂れもあるくらい、由緒のある場所ですね。山の向こう、今の山川方面とも繋がっていたから、そちらのほうとの交流もあったんだと思います。

上分に造り酒屋が多くあったのも、神社の所在と関係があるかもしれない。うちも江戸時代は酒屋をしていたという記録が残っているし、上分だけでも4軒くらいはお酒を作っていたそうです。勘場、大中尾、川又に2軒。うちは早くに辞めたけれど、川又では明治期までお酒を作っていました。うちの酒屋は、佐那河内や上角に田んぼを持っていたそうです。このあたりは水がきれいだったこともあって、お酒造りに適していたんでしょう。

竹内粟飯原さんのおじいさんがされていた医院も人がいっぱいでな。木屋平のほうで診療をしていたこともあって、遠方からも患者さんが来ていた。川又にあった数件の旅館に泊りがけで来る人も居たくらい。


昭和30年代の川又の様子、商店が所狭しと並んでいることがわかる


1987年の川又商店街の様子。中央右手が大塚旅館

貧しかった時代とそれを支えた助け合い「千人講」

―そんな人の多い時代もあって、その後の林業隆盛の時代もあり、上分は随分と豊かな土地だったのですか?

竹内わしら子どものときは山持ち、田んぼ持ちが全て。それが無いとお嫁さんを貰えないと言われたり。南谷は田んぼが多かったかな。山もあったから豊かだったかも。自給自足ができるし、両方持ってたら鬼に金棒じゃね。

うちみたいな商売人は、お金の回転が早かったから、お客さんは多かったけれど、決して経済的に豊かとはいえなかったかな。

佐藤山があって、木を植えたり、切ったり。産業自体は栄えているんだけれど、人件費がべらぼうに、無いに等しいくらい安かった。だから、人の暮らしは貧しかった。でも林業を専業で始めたのは周りの地域に比べて早かったのかも。近隣の土地で「上分がこんな風に栄えているから、植樹した」というくらい。

粟飯原遡れば、このあたりは下分も含めて、蜂須賀家の直轄地でした。直轄だから取り立てが厳しいんですよね。だから、上分では一揆も起きたりしていた。
時代が変わって、明治には山が政府から地域の人に分配された。だから、まあまあ大きな山持ちが多くなった。県有林とかではないから、個人が木を売れるし、それで林業も盛んになったのかなと思う。

山田昔はそんな風にいろんな家があって、職業もそれぞれ。貧しかった家も多かったから、助け合いがすごかった。たとえば、重い病気にかかってしまったり、その家の経済状況があまりよくなかったら、みなでお金を集めて、助け合いをしよった。各地区に世話人を作ってね。千人講(*3)っていっとたな。上分中回ってお金を集めて、その家に持っていっとった。

*3 家族が病気になったり、怪我をして働けなくなった時に、部落の人が手分けをして千人からお金を集め、神様や仏様にお祈りするという風習。残ったお金は、薬代などとして被災者に渡した。(『神山のくらし』より)

佐藤人だけじゃなく、牛や家のことも気にかけていたね。

山田そう、牛も大事な担い手だったから、牛が死んだら千人講(万人講)をしてな。火災があったりしたら、みな世話人が寄り集まって、「おまえのとこは、あそこの柱をもっていってあげ(提供して)」「うちは畳を用意するわ」などといって、家を立てる材料を工面してあげていた。


水害時の地域での助け合いの様子

竹内そうなったら、大中尾や中津の山持ちさんのところにいって、木をもらうんよ。もらったら、在所で手間を揃えて木を切り出してた。そういう助け合いしよった。

佐藤茅葺の屋根でも、手間をだしあって、また「手間がえし」したりね。

山田集落でも、トラブルなどがあって、田植えが遅れたりする家があるやろ。そしたらそこの長老が「あそこの家を手伝いに行け」と言う。みなは鍬(くわ)をかついで出かけて行って、遅れを取り戻すために手伝いをしてた。

みなが豊かなわけじゃなかったからね。修学旅行前になると、学校で映画の上映会を企画して、その上映会の券を地域の人に売ったりしていた。その券は、全部買ってくれていた。例えその券が要らなくても嫌な顔をせずに「ごくろうさんじゃな」って売りに来た生徒に声をかけてくれてね。

粟飯原僕らのころは映画の上映会はなかったけれど、同じように資金集めをするために鉄くず拾いをしてたりね。

竹内あと、山から採った蕨(わらび)を生徒が持っていくと、いいお金になったことを覚えている。

山田芋を干した白干しも売って学校の運営費の足しにしたりしていたね。いろいろな方法があったな。

佐藤学校裏にあった「興村亭」にミカンの木があって。実がなったら、近所に売りに行かされるんよ。「おいしいみかんができましたー!」って家を訪ねていってね(笑)。そうしたら、学校から川又の橋に行くまでの数十メートルの間に地域の人が全部買ってくれた。 少しも美味しくない酸い、酸いやつで何とも言えない味なんだけれど、それでもみんな買ってくれてた。

―いまは神山校の生徒が野菜を売り歩いてますね。

佐藤そうだね、あんな感じ。でもあれは、昔と違ってごっつい美味しいやつじゃな、むしろ安くて、進んで買いたいくらい(笑)。

 

―今回、上分のことをたくさん聞かせていただきましたが、思い出しながら話してみていかがでしたか?

佐藤テーマを見つけて話題を振ってあげたら、昔のことを思い出しながら話も出てくる。お年寄りは脳が活性化されて、みんな元気になるかな~、なんて思ったり。

でも、いまから10年前には、我々よりもっと話せる人がようけおったんだけどな。5年、10年経つと、がらっと顔ぶれが変わってしまうから、聞けることが減ってしまって、残念よな。

山田これから色んな地区に話を聞いていくんよな?それぞれ、地区ごとに特色も違うので、「この地区だったら将来こうなっていくかな?」、「こういう取り組みが出来るかな」とかみんなで考えたりして、将来に明かりが見えるかもしれない。そんな未来のことも今後は話していけたら嬉しいな。


今回、会場として使わせていただいた川又の大塚旅館


次回は、下分地区のお話を伺います。今も七夕祭りや地域をあげての行事が盛んな印象の下分、人々が集う習慣は以前から続くものなのでしょうか。

 

参考資料
『神山町誌 上巻・下巻』(平成17年3月 神山町発行)
『上分上山村誌』(昭和53年12月10日 上分上山村誌編集委員会発行)
『移り行く山村-上分上山の山河』(昭和56年11月10日 上分農業協同組合発行)
『上山のくらし』(昭和59年 神山のくらし編集委員会発行)
『上分小学校百年史』(昭和59年8月1日 上分小学校百年史記念事業並びに本館改築推進委員会会長 森彦富 編集発行)

文:駒形良介
制作協力:高橋啓
古写真データ提供:小松崎剛
企画・制作:神山つなぐ公社