阿川・二ノ宮で明治の創業から代々続く「多田商店」の店主として、今も店に立ち続けている多田 正治(ただ しょうじ)さん、92歳。

日用品や食料品を扱うこの店には、レジ前にあたりまえのように椅子が置いてある。買い物を終えたお客さんが腰を掛け、向かいに座る正治さんと「あれはどないなったで?」「元気しとんで?」と、言葉を交わし合うのがいつもの光景だ。

そんな正治さんのもう一つの顔。それがガス屋さんである。

60年にもわたり阿川地区を中心に各戸にプロパンガスを届けてきたが、今年の2月、ガス販売業から撤退した。高齢になった正治さんの体を気遣う、兄弟からの「もう辞めな」という声を受けての決断だった。

 

はじまりは、ガスが普及するよりも前、家庭用の燃料として薪や炭が主流だった時代にさかのぼる。当時、20代の正治さんは木炭や練炭、豆炭、割木などのいわゆる”焚きもん”と呼ばれる燃料の卸販売をしていた。

仕入れは阿川に30人ほどいたという炭焼きの職人さんや、徳島市にある練炭屋から。卸すのは、鳴門や石井にある焚きもん屋(燃料屋)。ほかに、”柴”と呼ぶ小さな雑木や枝などを、束ねて販売することもあった。

転機となったのは、昭和37年。

いつものようにお得意さんの店へ炭の配達に行くと店主に告げられた。
「多田よ、もう炭は売れんようになるぞ。ガスの販売をせえ」

当時、徳島県のLPガス協会長を務めていた人の言葉に内心「山でガスなんぞ、売れん」と思っていたが、ほどなくして販売に必要な資格を取ったのちに、ガス販売業へと切り替えていった。この年は、政府により制限されていた原油の輸入が自由化され、各家庭に急速にプロパンガスが普及した年だった。

その当時ではまだ珍しかったオート三輪の荷台にガスボンベを乗せ、各家庭のガスが切れる前に家々を巡った。

もっとも多い時は、200軒近くの家にガスを届けていた。神領・小野のあたりや徳島市、鴨島町にも数軒お客さんはいたが、大部分を占めるのは阿川地区の家庭。

配達のタイミングや頻度、道順に決まりはなく、「ほんなん、勘よ。そろそろ行った方がいいな、と思ったら行く」と正治さんは笑う。

正治 配達に行ったらな、お茶を出してくれるで。飲み終わるまで、ガスの支払いをしてくれん。ほなけん、お茶を飲みながらいろいろ話すよな。

まぜ込みの寿司を出されたこともあった。「待ってよ、お寿司するけん」って、急に米を研ぎ始めるで。わしは他所の配達に行きたいのに、行けんでえ。でもまあ、誰かとお話ししたいって人もおるしな。よう会話しよった。

冬に水道管が破裂した時は、「直してくれんで」って頼まれてな。5〜6軒直してあげたこともあるわ。

あとはな、媒酌人(仲人)ちゅうんか?わしが繋いでから結婚が成立したのが、阿川に10組ある。ほんで離婚なしじゃ。配達に行って、話をしよう間にほういうことを頼まれることもあったなあ。

ガスのことに留まらず、日常のちょっとしたおしゃべりや、困りごと、人生に関わる相談まで、正治さんはさまざまな場面で頼りにされてきた。

頼まれたことを「仕事じゃないから」と断ることはなく、やれることをやる。
嘘をつかない、人を騙さない、といったことを当たり前に大事にする。

そうした、正治さん自身の在り方や関わりの積み重ねが、「困った時は正治さんを頼ろう」という周囲からの信頼に繋がっていたのだろう。そして、手の届く範囲で、顔を合わせられる範囲で、営む事業だからこそできたかたちなのかもしれない。

店はみなが、生きとううちはせえよ(続けなよ)ちゅうけんな。まあ続けるわ。根気よ。

ガスの販売は終了したが、現在も、調味料や食材など、暮らしに必要な物を求めて訪れる人たちのために商店の営業を続けている。少し前に体を壊し手術をしたものの、店を閉じることは今のところ考えていない。

取材中にも一人、また一人と訪れ、買い物ついでにしばしの談笑を楽しんでいた。

時代の移り変わりや後継者不足により次々と姿を消しつつある個人商店だが、地域に根ざした店と店主が、変わらず地域の拠りどころとして続いていくことを願う。

(取材 2023年6月29日)