
神山の地名について
アート2008年5月14日
村名の変遷
日本古代の歴史や伝説を集めた「古事記」という本に「国生み」という伝説が書かれていますが、それによりますと「日本は神が生んだ国」といわれています。一番最初に生まれたのが淡路島で、その次ぎに四国が生まれました。この国は四つの顔を持って生まれました。二人は男の顔で、二人は女の顔でした。
男の顔をした国は讃岐と土佐で女の顔は阿波と伊予であったといいます。それぞれの国は天の上から降りてきた神が治めていましたが、阿波の国の女神は大宜都比売命(おおげつひめ)という女神でした。この女神は天の上から今の神山町神領の 天辺丸に降りてきて阿波を治めました。この山の麓にある上一宮大粟神社はこの女神を祀ってあります。神領という地名は神の領地という意味でしょうか。この伝説は神山に関する最も古い時代のものです。中世になると鮎喰川流域には二つの村があったようです。上流は上山村、下流は下山村です。上山は現在でも使われていますが、下山は何時か消えて現在では使われていません。村の位置ははっきりしませんが上山は神領から上流の地帯で、下流を下山といったようです。
近世になると村の位置がはっきりしてきます。時代がすすみ、人々の教養も高まったからでしょうか。また、藩政時代には藩が中心となって阿波国内の細かい政治組織を造り上げたためとおもわれます。
この時代に現在の神山町には次の村がありました。上山村(この村は藩政時代の途中で上山村上分と上山村下分に分かれます)、左右内村、神領村、鬼籠野村、阿川村、広野村です。この村の構成は藩政時代が終わる時まで続きます。時代が替わり明治時代になってもしばらくは藩政時代の村が続きますが、町村制という法律によって、村の状態が変わります。
上山村上分は上分上山村になる。
上山村下分は下分上山村になり左右内村を合併する。
左右内村は下分上山村大字左右内となる。
阿川村と広野村は阿野村となり、大字阿川と大字広野となる。
このような村の構成は昭和30年のまで続きますが、神山町誕生とともに現在のように旧村は上分・下分・神領・鬼籠野・阿野となりました。
コメント一覧
稲井先生お久しぶりです、大粟の里、覚えております 昭和39年下分中学卒業の谷公雄と申します 子供の頃に新聞配達をし奥様からおやつを戴いた親切を記憶しております、嬉しかったです 地中さんの著書を愛読しております、知人にも配り神山の良さを知らせています、宇野正美さん取り巻きの方が神山に何度も行かれてます、邪馬台国は神山だと異口同音に申してます、 私が連れて行きました霊者2名も高根の悲願寺に立ち、ここで大勢の方達が生活している姿が見える、少し上の小高いところで女の方が沢山の方達に説法している姿が見えると言われ、卑弥呼のようですねと言われました、 大粟神社に立ち寄りましたら日本の五穀は此処から始まりましたねと又天の川伝説も此処からですと、横に天の川と名の付く川があり驚きました、当時の男宮・女宮の村の争いを鎮める為に宮を分けられたその時夫婦の神が年に一度出会われたそうです、大宜都比売命を単独に祀る宮はここしか記憶に無いとも言われました 地中さんの本に心躍らされます、いにしえの良き里、大粟の里、イスラエルからの移住者たちの誇らしげな姿が目に浮かびます、大きく深い歴史を秘めた神山を心から愛します
2009年2月12日 10:26 AM | 谷公雄
前文の谷です、ホームページごらん下さい
2009年2月12日 10:35 AM | 谷 公雄