神山町旧役場文書(10)「郡役所」

なんでも2010年1月20日

アバター画像

投稿者:稲飯 幸生

– 神山町旧村役場文書を読む(その10)-

旧阿野村役場(広野村・阿川村にわかれていた時代です)。
この文書は表題が傷んではっきりしません。しかし、明治17年作成ということで旧役場文書8,000冊のうちでも最も古い帳簿の一つです。昔の阿野村の事についていろいろ書いています。

明治17年2月8日付で広野村長より名西郡長あての報告書があります。

【明治16年分阿波国名西郡広野村特有物産表】
・生糸:三貫目(一貫目二〇円)
・葉藍:二一九九貫六〇〇目 (一貫目二五銭)
・製茶:三貫五〇〇目 (一貫目二円)
・番茶:五貫目(一貫目目拾五銭)
・葉莨:弐百五拾斤・参反歩
・薪:壱拾五石  壱升につき六拾銭
・炭:弐千五百俵    壱俵につき六銭
・藍種:四石五斗 一石につき一五円
明治の初め頃に広野村の産物がよくわかります。藍をよく作っていたようです。

【里程表】年月日記入なし(明治17年頃?)
広野村役所より鎮台・営所・分屯地など軍隊に関係のある場所までの距離を書いています。このようなことがこの時代に大切なことであったのでしょう。日本は軍隊中心の軍事国家でした。
大阪鎮台迄(四七里拾丁) 伏見営所迄(五七里拾丁)
姫路営所迄(四七里拾丁) 大津営所迄(六一里拾丁)
広島鎮台迄(八一里一九丁五八間二歩)
丸亀営所迄(二三里三四丁一五間二歩)
松山分屯地迄(五八里一二丁三間)

【戸籍面加除員数御届】
明治17年2月8日 広野村長より徳島県令(知事)あての人口動態報告です。

明治16年7月より12月に至る
一、出生:36人(うち 男19人、女17人)
一、入籍:9人(うち 男6人、女3人)(入籍しない者もいた?)
一、送籍:20人(うち 男9人、女11人)
一、他村へ寄留:無
一、他村へ転居:無
一、死亡 10人 内男10人 女無 (女性は死ななかった?)

○明治16年中産額価額代価項目(家庭で製作した品物のようです)
一、地絹織:無
一、木綿縞:60反 代価42円
一、白木綿:150反 代価65円
一、夏蚕繭:7石 代価35円
一、手取生糸:三貫目 代価60円
阿野村が広野・阿川に別れていた時代の広野の状態で、産物・人の様子が記録されています。
(勧業 八箱)

アバター画像

稲飯 幸生

神山町文化財保護審議会長。

稲飯 幸生の他の記事をみる

コメント一覧

  • 1尺は約30.3㎝で10尺のことを1丈(じょう)というらしい。 つまり 1丈は 約 3m。 「方丈」とは四方が1丈・・つまり、 3m 四方ということ。 鴨長明は、3m 四方の部屋で書いたということか・・。 1貫(かん)とは約3.75kg 一升が1.8Lで、その10倍が一斗(と)で18L。 10斗が、1石(こく)つまり180L らしい。 反(たん)は鯨尺で2丈7尺前後で幅9寸、一人の着物が出来るくらいの大きさ・・・とありますが 鯨尺ってなんじゃろか。 稲飯先生の記事は勉強になりますナ。

    2010年1月22日 01:01 | ニコライ

  • 広野でも藍が栽培されていたんですね。 復活させようか?いや、止めとこう。また、忙しいになる・・・(笑) (稲飯先生、書くのを急き立てようと、勝手に掲載しています。)

    2010年1月22日 22:20 | 大南 信也

  • 広野の大地谷地区(椚野方面)では、山の中腹に小規模の藍畑(あいはた)があったらしいと、近所の90歳の女性にお伺いしたことがあります。 といっても、直接は見てなくて、その方よりも前の世代がやっていたことらしいです。 (農業のつらさを知らない世代としては) 何か、ロマンを感じてしまいます。 悠久の時の流れ。。。

    2010年1月29日 07:33 | sasuke

コメントする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * 欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください