「まちの外で生きてます」#03 松久保 諒さん
なんでも2022年1月12日
〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・白桃さと美・中川麻畝・海老名和、神山町出身の5名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、神戸の大学に通っていたり、徳島市で働いていたり。
「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた中学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。
紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。
町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第三回は、広野出身で今は徳島市内で暮らす松久保 諒さん(31歳)に話を聞きました。
── 神山で過ごした幼少期の松久保さんについて教えてください。
松久保 広野の下地団地出身です。小学校は広野小学校に通っていました。当時、同級生は17人くらいだったかな。放課後は秘密基地をつくったりしていました。移動手段も自転車くらいだし、森を見つけては入るみたいな。勉強した記憶はなくて、遊んだ記憶しかないですね(笑)。いたずらをしたり、してはいけないことをよくしていました。今関わってくれている人は、僕がそんなことをする人には見えないと思いますが、割とやんちゃな感じで……(笑)。
── 中学生になって変化はありましたか?
松久保 小学校の同級生がそのまま神山東中に進学するので、全く変化なし。神山東中あるあるで言えば、絶対何かの部活に入らなきゃいけなくて。これは神中(神山中)と一緒かな。神中はいろいろ部活がありましたよね? 東(神山東中)は二つなんですよ。男子は卓球と野球で、僕は野球部でした。野球が好きだったので入ったのですが、野球部にいた期間の半分はずっとヘルニア……。結局ほとんど別メニューだったためその思い出しかなく、部活も青春って感じじゃなかったです。集中していたら楽しいはずの部活の時間も、僕はずっと「早く終われ」と思ってました(笑)。
少し話が戻りますが、小学校の時から年下の子と遊んだりお世話をしたりするのが好きでした。兄弟も含め、近所の子とかと結構遊ぶ機会があって。そんな話を中学校の先生に話していたら、「保育士が向いているんじゃない?」と言われて、それから保育士という職業を意識していましたね。今は、子どもを撮影するカメラマンをしているのですが、この保育士という職業とつながっています。
── どのような高校生活を送りましたか?
松久保 高校は名西高校の普通科に進学して、陸上部に入りました。中学生の頃、野球部は全員参加の陸上大会があり、そこをきっかけにハードルが好きに。ハードルをしたいから陸上をしているような感じでした。基本的に、基礎練習とかは大嫌いなんですよ(笑)。でもハードルの専門的な練習は好きで率先してやっていました。
あと、高校に入ってからはなぜか可愛いキャラが定着しました(笑)。僕が登校したら校舎の窓から「まっちゃーん」っていう黄色い声援が聞こえてくる。それがまた気持ち良くて(笑)。「おっ、中学校とは違うな」と。キャラを変えたつもりはないですよ? でも何か中学校と違ったんですよ。可愛いいじられキャラみたいな。
保育士になりたいという夢はこの頃もありました。入学するまで知らなかったのですが、名西高校は選択授業の中に保育の授業があって。その頃、まだ男性の保育士は少なく、女の子ばかりだけどやってみようと思い、その授業を受けました。その時かな、自分で初めてやりたいこととして何かを選択したのは。授業では保育園に実習での離乳食づくりをしたと思います。そこからどんどん保育士えぇなぁって。大学は保育について勉強できるところが良いと思い、四国大学の生活科学部児童学科を選びました。
── 児童学科ではどのようなことを勉強しましたか?
松久保 保育全般。絵本づくりとか、歌とか表現とか。僕、実はあまり勉強してないんです(笑)。してないというか、あまり自分のものにしようとしていなかったんですよね。今授業が楽しくて終わったらえぇやみたいな。それにたいして突き詰めなかったので、知識は薄いかも。だから何が一番という思い出はなくて……。基本を通り越して、子どもと直接関わるところは好きだったのだと思います。
(左から3番目のカバが松久保さん)
授業とは全然関係ないのですが、大学の思い出はあります。文化祭で手づくりの衣装でディズニー映画のマダガスカルの仮装をしたら見事に優勝しまして……。その時の僕ら、輝いていましたね(笑)。写真を求められるし、高校時代に続いて二回目の“黄色い声援”の時代が来るわけです(笑)。夜中まで作業したり、朝が来るまで練習したりと、これは青春でした。
── 社会人になってから今の仕事に至るまでのことを教えてください。
松久保 卒業して保育士になりました。僕が行っていた保育園は、特殊な教育方法で。いわゆる保育プログラムみたいなものはなく、お遊戯とか絵本読みとかもなかったです。基本外で遊ぶような園。土に触れたりするのは良いなぁと思って選びました。一年半くらい働きましたが、結婚するタイミングで辞めることに。保育園ってどうしても上がり幅が少なくて、男の人で続けていくのは難しいかなと思いました。そこは現実的ですね。その後、普通の企業に就職しました。縁もゆかりもない車のディーラーですが、営業というものには少し興味があったので。
一年くらい働いた頃、忙しくて体調を崩してしまい仕事を辞めました。辞めるまでの有給消化中に友達から「写真展があるけんついてきてくれん?」って言われて、たまたま行ったんですよ。三人くらいの個人の写真展で人物の写真。その中に子どもの写真があって、それを見た時「こんなことできるんやな」って思いました。趣味もなかったし、気づいたらそのカメラマンの名刺に書かれていた番号に電話していました。これを仕事にしたいとかじゃなく、ただ単にこれをどう撮るかっていうことを聞きたかったという理由で。そうしたらそのカメラマンが「教えてあげるから、スタジオにおいでよ」と言ってくれて。スタジオに行ったら「カメラ貸してあげるから、することないんだったら手伝って」と。カメラを趣味にしようと思い、衝動的ですが機材を一式買いました。それからは師匠についてアルバイト兼お手伝いのようなことをしていましたね。会社を辞めていたのでそれだけで食べていけるわけもなく、病院のケアマネジャーなど別の仕事をしながら、空いた時間はカメラの手伝いをしていました。
一年くらい経ったあたりで保育園の修学旅行に行く機会がありました。それまで、別に写真を撮ることを楽しいとは思っていなかったです。でも、修学旅行で撮った写真を保護者の方が喜んでくれたんです。写真が良いって褒めてもらって。そこから自分がやりたいことが明確になりました。カメラマンになりたいというよりは、“保育園で写真が撮りたい”。次の年から、徳島の保育園、西から全部電話しました。断られることも多いなか、一軒、たまたま話を聞いてもらえて、「早速来てよ」って。その時のリトミック教育で撮った写真を気に入ってもらい、その保育園から「お願いするわ」と仕事をもらうようになりました。これが個人としてのカメラマンの活動の始まりです。26歳の頃ですね。その後もいろんな縁があって、多い時には8、9軒の保育園に行っていました。今は自分でできる仕事の範囲を考えて、スタジオ撮影と保育園の撮影のバランスをとりながらやっています。
── “良い写真”を撮る秘訣はありますか?
松久保 写真って今誰でも撮れますよね。奇麗な写真は誰でも撮れるんですよ。僕の中では、子どもの素が見える、躍動感のある写真が“良い”写真。
(七五三で松久保さんが撮影された写真)
良い写真を撮ろうと思うと素を出せない。「そこに立って」「もっとこっちに寄って」みたいなこだわりが出てきてしまいます。子どももしんどいですよね。なので「良い写真を撮ろうとしない」っていうのが究極です。保育士をしていた強みで、子どもが喜ぶこととか間(ま)、タイミングなどは分かります。うまいことしていたら子どもが心を開いてくれるので、そこで勝負しているようなものです。
(七五三の出張撮影をする松久保さん)
親になって分かったこともあります。たとえば、子どものアップの写真は可愛いと思っていたのですが、それを保護者が欲しいかと言われたらそうじゃない。それより誰と何をしてどんな表情で……という部分が必要。砂遊びをしていたとしたら、それに至った過程を知りたいです。一人でやっていて友達が加わって来たのか、みんなでやろうって始めたのか、とか。それを伝えるべきじゃないかと思います。
(フォトスタジオで松久保さんが撮影された写真)
── 昔と今、神山の印象は変わりましたか?
松久保 小さい頃から神山は良いところだと思っていました。同級生の中には、「神山は何もない」「都会に出たい」という子もいましたが、僕は共感できなかったです。神山は川遊びが醍醐味ですが、僕は泳げません(笑)。それを除いてもやっぱり良いところ。落ち着くし、奇麗な場所。都会への憧れはなかったです。
結婚して神山を離れましたが、今もよく自分の子どもを連れて帰ったりしています。でも仕事関係では、今のところ縁がないですね。神山にいろんな人が来たり、いろんな店ができたりとそういう変化は、羨ましいなと思います。でも、少し行きにくいなと思うのも正直なところ。誘われたりするのですが、ちょっと気まずさみたいなものもあるかな。自分が仕事を始めた頃にこういう変化があったらもう少し関わりやすかったかも。
── 今後の目標はありますか?
松久保 今は一人で仕事をしているので、家庭に届けられる子どもの様子にどうしても限りがあります。それなら多少人件費はかかっても、保育園で子どもたちが成長している姿をもっと届けたい。そのために、自分でするというこだわりは捨てようと思っています。行っている園やこれから行く園で、今自分がやっているように子どもたちの撮影をしてくれる人と一緒にできれば、と思います。そうすれば何倍もたくさんの写真を届けられますよね。
インタビュー・文:大南真理子
神山中学校の後輩たちからの質問
Q:今の仕事のやりがいは何ですか。(神山中学校2年生)
松久保 写真を撮った帰りに、「楽しかった」「またお兄さんと遊びたい」「帰りたくない」などの声を子ども達から聞ける事です。子ども達が楽しければ100点の撮影、子ども達が楽しくなければ0点の撮影。そんな想いで写真屋さんをしています。
Q:将来の夢を実現するためにどんなことが必要だと思いますか?(神山中学校2年生)
松久保 「挑戦」と「失敗」をすることです。正直、挑戦することは怖いです。ドキドキします。周りの目が気になります。ただ、それは最初だけです。「挑戦」「失敗」を繰り返すうちに怖かったのが楽しいに変わります!「失敗」はいずれ、笑い話に変わり、自分の一生語り継げるエピソードとして、武器となります。
Q:自分らしく生きるために必要なことは何だと思いますか?(神山中学校2年生)
松久保 「無理だ」という言葉に流されないことだと思います。これから先、「君にはできない」「そんなこと不可能だ」と言われることが必ずあると思います。でも、そんな言葉は無視してください。仮に「無理」だったとしても、何回も挑戦することで無理ではなくなります。
Q:保育士を辞める時、不安な気持ちはありませんでしたか?(神山中学校2年生)
松久保 不安はありませんでした!不安より「次の事にチャレンジしたい!」という気持ちが強かったです。正解ではないかもしれないけど、少なくともリスクのない挑戦はどんどんするべきだと思います。
Q:神山を出てから「やっぱり神山っていいな」と思う瞬間はありますか?(神山中学校2年生)
松久保 実家の部屋で、雨がトタンに跳ねる音を聞くと、すごく神山を感じると同時に「神山っていいな」という気持ちになります。
Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
デザイン:白桃さと美
編集部とりまとめ:大家孝文
やままち編集部
やままち編集部は、神山町出身の5名(大家孝文・大南真理子・白桃里美・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)
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