「まちの外で生きてます」#20 佐々木裕司さん
なんでも2024年11月15日
〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和、神山町出身の4名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、徳島市で働いていたり。
「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。
紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。
町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第二十回は、鬼籠野出身で今は大分で暮らす佐々木裕司さん(45歳)に話を聞きました。
―小学生のころ、どんなことをして過ごしていましたか?
佐々木 僕は鬼籠野で生まれ。小さいころは年齢の近い人たちとよく遊んでいました。兄が四つ上と、二つ上の学年にいて僕は三男坊だったのでその辺り子と、ちょっと下ぐらいの子たちとかと遊ぶような感じですね。よく野球で遊んでいました。
(写真/鬼籠野幼稚園の卒園写真。佐々木さんと共に佐々木さんの父も。)
佐々木 鬼籠野小学校の分校出身なんです、珍しいでしょう。昔、一ノ坂分校っていう分校があったんです。小学校二年生まで同級生は4人で、三年生から本校に通います。それが鬼籠野小学校で、その時の同級生は18人。二年生から三年生に上がる時に、皆自転車通学で本校に行くようになります。自転車で峠を二つ超えるんですよ。半分ぐらいは押して。なので、結構時間かけて行っていたかな。三年生から本校に合流するわけですが、いろんな行事の時、たとえば運動会とかは本校と一緒にしていたので、だから同級生も知らんこともないっていうような感じ。
(写真/鬼籠野小学校は、二年生まで一ノ坂分校に通っていた。同級生は4人。)
―中学校のころの思い出を教えてください。
佐々木 神山中学校(神中)では同級生が81人だったと思う。確か3組あったんですよ。中学校は寮生活。僕は今、教員として働いているのですが、あの寮に入っていなかったら勉強する習慣はつかなかったと思います。夜は2時間、自学の時間があり、振り返ってみると、寮で勉強するっていうのが自分のなかでは良かったかな。この年になって分かるようなことですけどね。
佐々木 部活はサッカー部に。当時Jリーグが流行っていましたし、さっき兄が二人いると話しましたが、二人共サッカーしていたので。そのころ、サッカーって多分、県大会とかにはあんまり行ったことなかったと思うんですけど、僕らのときは県大会に出場できました。郡の大会は、高浦中と石井中と神中と3チームあって、神中が得失点差で優勝したんです。福原君が良いシュートを決めて、得失点差で郡で優勝しました。
佐々木 中学校の立志式での将来の夢は、何を書いたかまったく覚えてなくて妻に聞いてみました。神山中学校に勤めていたことがあったので。僕の作文を読んだら、大工さんになるみたいなことを書いていたみたいですね。小さい時に自分の家に納屋ができたんですよね。その時、大工さんの仕事を見てすごいな、ものをつくるのは面白そうだと思っていました。それで大工と書いたんだと思います。そうしたこともあり、高校を選ぶ際は、建築家になりたいと徳島工業高校(徳工)に決めました。
―神山から徳島市内の高校へ。生活の変化はありましたか?
佐々木 徳工に入学。Ⅰ類、Ⅱ類と分かれていて、僕は建築系なのでⅠ類っていう方に。下分などの方から比べると市内に近いので、家から自転車で通っていました。建築の専門の授業自体は、まったく知らないことばかり勉強するので覚えることは多かったように思います。実習とかは面白かったなぁ。製図したり、ベンチつくったり。
佐々木 高校ではラグビー部に入りました。神山の先輩がラグビーをしていて、「ラグビーに入り」って言われたので、「ほな入ります」って入った感じです。部活としてあまり盛んにやっていなかったですが、僕が三年生でキャプテンをしていたころは指導者が変わって新しい先生が来られて、そこから一生懸命やったかな。最後は城南高校と試合したんですが、64対0とかで負けたんですよ。頑張ったけど悔しかった。それが1回戦だったので、もうちょっとやりたいとか、続きを見てみたいというそんな気持ちがあって、教員として関われるよう教員を目指したようなところがあります。いつかこの母校を花園に連れていきたいなと。大学にはもともと行きたいと思っていましたが、行くなら教員免許が取れるところにと思い、大分の日本文理大学工学部建築学科に指定校推薦で進学を決めました。部活でキャプテンをしていた責任感もあったので、受験の時期と全国大会予選の時期が被らない選択肢として大学を選んだ部分もありました。
(写真/徳島工業高校のラグビー部では、キャプテンを務めた。)
―徳島を離れた大学生活はどうでしたか?
佐々木 大分は温泉もあって、物価も安いし、とても住みやすいところ。建築学科は比較的忙しく、模型をたくさんつくっては授業で先生にバキバキに折られてダメ出しされたりして(笑)。そんなのが続いてもう嫌になりました、辛かったですね(笑)。でも要領は良い方だったので、アルバイトをしながら大学でもラグビーをしたり。四年で卒業できたので、良かったかな。ただ、なかなか部活には行けなかったです。クラブチームも掛け持ちしていて、タイミングの良い時にどちらかの練習に行っていました。
―大学卒業後はどのような道を選びましたか?
佐々木 就活のタイミングで徳島県の教員採用試験は受けましたが、当時倍率が高くて……。工業高校の建築土木の枠で、最初受けた時は確か17、18倍ぐらい。で、当然受かることもなく……。でも講師の口はあるだろうと思い、大学を卒業して徳島県で講師を始めました。建築のコースがあるのは、今でいう、つるぎ高校(旧・貞光工業高校)か徳島科学技術高校(旧・徳島工業高校)か、定時制の徳島中央高校の三つ。1年ごとに行くところが決まります。
佐々木 最初に赴任したのは徳島中央高校。やんちゃな子が多かったのですが、そんななかで学校に来ているという大変さというか、向学心というか、そんなところはやっぱり素晴らしいなぁと思いました。仕事せずには生活できないというつらいところもあるんだろうなと、すごいなぁって思うところが多かったですね。不登校で学校に行けなくて、夜の学校に学び直しをするなど、多様な子に出会ったことで自分が考えていた「こうあるべきだ」みたいなものが変わっていく感じがしました。自分が経験してない人生の歩み方がある。それが分かると「これが正しい」とか「こうあるべきだ」みたいなのがなくなってきましたね。
佐々木 その間も、時々、徳工のラグビー部にはOBとして行っていました。関わりは非常に薄かったのですが、高校三年生の時の監督が審判をしていて、「レフリーをしていると、お手伝いできるし役に立つぞ」みたいなことを話してくれました。また「あの時に行けなかった花園に立つチャンスが、レフリーだったら出てくるぞ」と言われ、レフリーを始めました。23歳で県大会でホイッスルを吹けるC級、24歳の時に関西の大会で吹けるB級を取りました。B級のなかでも実績を残したり、研修を受けたなかから選抜された人だけが花園の試合で吹けるのです。僕は32歳で初めて花園で吹きましたが、本当に感激しましたね。「あぁ、グラウンドこんな感じか」と。
(写真/ラグビーのトップレフリーになって五郎丸選手の復帰戦を担当。)
佐々木 3年間徳島で講師をした後、妻の故郷で講師に。そして2010年の採用試験で合格して徳島に帰ることになり、そこから徳島県で10年教員をしていました。教員をしている間は、徳島科学技術高校から徳島科学技術高校定時制に行って、また徳島科学技術高校全日制に帰るなど、科技高の中で10年間を過ごして。その後、大分県の採用試験をもう一回受けて再び大分に。今年の4月から日田林工高校に赴任しました。日田林工高校にはラグビー部がないので、相撲部の顧問をしています。
―今、45歳になって仕事や人生のことをどんな風に感じていますか?
佐々木 人と出会うことでいろいろ変わるところがあると思うんですよね。たとえば、高校三年生の時に担任に行けって言われなかったら、大分の大学には来なかったし、ラグビーの試合で負けていなかったら教員になろうと思わなかった。花園に立ちたいと思っていたけど立てなくて、でもレフリーしたら花園立てるぞって言われなければ、花園に立てることにもなったのです。自分のアンテナを高く伸ばし、どんな情報をキャッチするかで人生が変わる。いろいろな選択肢があるなかで、自分が良いと思う方を選んでいけば、きっと幸せになれるんじゃないかな。
佐々木 ラグビーの審判をしていて学ぶことがたくさんあったので、それを還元できる場所があったら良いですね。「チャンスの扉にはドアノブが付いていない」という話を聞きますが、チャンスは平等には巡ってこないから、ずっとチャンスの扉の前で開くのを待ち続ける努力が必要。そんな話を伝えたい。今はそれを教室で伝えているのですが、そのほかにも伝えられるところがあれば嬉しいです。ラグビーでは育成のところもちょっとお手伝いできると良いですよね。あと、以前、研修で海外に行かせてもらったこともあるので、もう一回ニュージーランドに勉強しに行きたいな。
(写真/2017年5月、レフリーの研修でニュージーランドに。)
佐々木 神山には年に2回くらいは帰っています。今は仕事があるので難しいですが、退職した時には神山に対して何かお手伝いできればと思っています。気候的には涼しいので、ラグビーの合宿所とかができてそこの館長をさせてくれないかなと思っているんですけどね(笑)。
インタビュー・文:大南真理子
質問!まちの外で暮らす先輩にあれこれ聞いてみよう!(高校生)
Q:なぜ教員を選んだのですか?
佐々木 ラグビーを教えたいと思ったからです。また、僕の地域で、教員になった人が誰もいなかったので「一ノ坂から教員を出したい」という父の夢を叶えたいとも思ったからです。
Q: 学生時代にしていて一番良かったことは何ですか?
佐々木 教員免許を取得したことです。高校生の時に、「資格は荷物にならないからたくさん持っておくと良い」と教えられました。資格が自分を助けてくれる日が来るかも知れないので、積極的に取り組んでください。
Q: 仕事や審判のやりがいやモチベーションはなんですか?
佐々木 「ありがとう」と言われることが嬉しくて、モチベーションになります。やりがいがある仕事だと感じる瞬間でもあります。
Q: 大学卒業後、県外で働こうとは思いませんでしたか?
佐々木 母校で勤務したいという思いが強かったので、県外で働こうとは思いませんでした。
Q:審判をしていて「このチーム良いな」と思うのはどんなチームですか。
佐々木 良いチームは、あいさつ、道具の整理整頓、コミュニケーションのどれをとっても一流です。ひとつひとつに意味があることをしっかりと理解できているのだと思います。出合った瞬間からこのチームは強いなと感じますね。
Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
編集部とりまとめ:大家孝文
やままち編集部
やままち編集部は、神山町出身の4名(大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)
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