「まちの外で生きてます」#22 粟飯原友さん

なんでも2025年3月13日

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投稿者:やままち編集部

〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和、神山町出身の4名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、徳島市で働いていたり。

「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。

紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。

町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第二十二回は、下分出身で今は大阪で暮らす粟飯原 友さん(33歳)に話を聞きました。

―神山での思い出を教えてください。
粟飯原
 私は下分出身です。小学一から三年生までは下分小学校で、四年生の時に神領に統合されました。同級生は下分保育所から一緒だったので、小学校に入学した時も特に様子の変化なし。当時、下分小学校の全校生徒は24人くらいしかいなくて、私は二個上に姉がいるのですが、姉を含む上の学年の人が遊んでくれていました。学校はめっちゃ楽しかったって感じです(笑)。休み時間は外に出て遊んだり、帰り道で遊んでいました。集団下校だったのですが、家まで30分くらいみんなで「いたんこ」を食べながら帰ったり、意味もなく山入ったり……。たまに大阪の友達に思い出話を話すけど、共感されませんね(笑)。スポーツ少年団が終わったあと打ち上げでバーベキューして、その流れで小学校下の川で遊んでいたこともよく覚えています。

(写真/下分の実家で家族と、粟飯原さんのお食い初め)

粟飯原 神領小学校にはスクールバス。ずっと一緒の8人のクラスから神領では28人になって、ちょっと戸惑いました。とはいえ、一人ではなく友達と一緒に新しいコミュニティーに入るので、それで慣れていきました。神領小学校ではバレーボールをやっていました。先に友達が入っていて楽しそうだなと思って。背も高かったので。バレーがきっかけで神領や鬼籠野の友達の家と行き来するようになり、神領の上角くらいまでは自転車で行っていました。

(写真/神領小学校に統合された四年生からはバレーボールを始めた。手前が粟飯原さん)

粟飯原 神山中学校からは阿川の子たちも一緒で30人。阿川は女の子二人だったので、そんなに大きくは変わらなかったように思います。部活では、引き続きバレーを中学校でもそのまま続けました。加えて、駅伝と陸上部にも参加。中学生のころって体力が無限なんですよね。夏休みは朝7時から駅伝の練習で1時間くらい走って、9時から12時までバレーの練習。お昼を食べて砲丸投げ、夕方からはスポーツ少年団の練習を夜9時くらいまでやっていました。動けるときに動くことが大事だなと思い、今も行動しています。

粟飯原 三年生の時の神中祭は盛り上がりました。神中祭は三年生が内容を考えて引っ張って進行します。午前中は体育祭で、昼休み終わったくらいに三年生が劇をするのですが、とても印象的でした。立志式のことも覚えています。作文を発表して、劇もしました。そのときは台本を書いて、役も自分達で決めて。内容は、リアルな中学生の日常みたいなもの。合唱コンクールがあるのにクラスの皆が全然練習しなくて、主人公の和田さんという女の子がめっちゃ頑張って、皆がまとまっていくというシナリオです。私はそのなかで合唱の伴奏を担当。リアルの合唱コンクールでも三年間弾かせてもらいました。クラスは団結力があった方だと思います。それは、二年生のときにあったへきち教育の全国大会みたいなものがきっかけかもしれません。大会に向けて、発言力とか自分で考えて前に出る力を養おうという意識を、当時担任だった海老名先生が積極的に養ってくださったお陰でだと思います。今でもそのマインドは私のなかに強く残っています。

(写真/思い出深い神中祭での一枚。タイヤ引きをする真ん中が粟飯原さん)

―中学時代はどんな夢をもっていましたか?
粟飯原
 立志式には報道関係の仕事に就きたいと書いたんですよ。ずっとNHKを見ていて、国谷裕子さんというアナウンサーに憧れていました。本当はその目標に向けて進路を決めていかなければいけなかったのかもしれないけど、その時は漠然と報道関係に就きたいということだけ考えていましたね。進路については、その都度その都度で自分がやりたい選択をしていきました。

―中学卒業後の進路はどのように決めましたか?
粟飯原
 高校は城南高校。ちょうどそのころ制服が変わって可愛くて、校舎も建て替わるタイミングだったことが理由(笑)。通学方法も決め手で、母の通勤に合わせて一緒に車で通っていました。神山から城南に行ったのは、全部で三人。市内の友達に訛ってるって言われました(笑)。イントネーションが訛っていたそうです。高校は一学年300人くらい。規模感が大きくなるのは、戸惑いましたね。クラス替えも人生初だったので新鮮でした。部活は新聞部に。入った理由は、新聞の全国大会があったことです。誰も部員がいなくて、たまたま担任が顧問の先生だったこともあり、内申書にも書けるよということで入りました(笑)。球技大会の写真を載せたり、卒業式のときには卒業生のために新聞を出したり……。

(写真/城南高校時代は新聞部に所属。行事ごとにいろんな記事を作成した)

粟飯原 その後、岡山の大学に進学。高校時代に生物が好きで農学部に。中四国で調べて、岡山大学農学部に入学することにしました。報道関係という気持ちはありながら、その時興味のあるものを選択していました。先のことはあまり考えていなかったですね。初めて神山を出て一人暮らしをすることになったのですが、姉が先に大阪に出ていたし、親も出た方が良いよって感じで。一人暮らしは「やったー」って感じ(笑)。ホームシックになったこともないですね。岡山での生活も楽しかった。大都会でもないので、初めて一人暮らしをするところとしては良かったかなと思います。

粟飯原 農学部では、1年生の間は総合的なことを勉強。植物の勉強も動物の勉強も。実家にいたころから畑と田んぼで土いじりを手伝っていたので親近感があるものでした。専攻は木の研究をしていたため、就職は木を扱うところが良いと思い、大阪の建材メーカーに。営業職で三年働きました。木の研究は好きだったけれど、建材メーカーはどちらかというと建築に近い世界でした。単純にリサーチ不足だったんですけどね(笑)。忙しかったですが、全国いろんなところに行って面白い経験もさせてもらいました。

(写真/岡山大学農学部では、木について専攻。写真は学会発表時の粟飯原さん)

―今の仕事について教えてください。
粟飯原
 その後、転職して今の人材派遣の会社に入りました。キャリアコンサルタントの資格を取ったのでそれを生かそうと思ったら、やはり人材派遣会社かなと。大学事務への就職を望む人に強い会社です。応募があった人に仕事の案内をしたり、希望条件を聞いてこの希望や経験をもっていれば、こういうところが合っていますよとコーディネートしたり。この仕事では何よりコミュニケーションが大事です。人の話を聞くこと。相手の年代はさまざまで、新卒から60代以上の方もいます。この仕事を始めて、仕事を決めることは人生・生き方にも直結するということを再認識しました。人によって大切にしたいこと、希望する条件が全く違うので、一人ひとりにあった話し方や言葉選びが必要となります。さまざまな人と毎日かかわることで自分の価値観がすごく広がったと思います。一番のやりがいは、私がお話した方の仕事が決まって、ご本人も紹介した先の方もWin-Winの結果が得られた時に感じますね。

粟飯原 今、この仕事に就いて6年目。人材紹介のお仕事はAIにも負けない、決してなくならない仕事だと私は思っています。やり方は変わってもずっと続けられるように、自分自身もっと研鑽して、コミュニケーション能力や人間力を高めていきたいです。

―大阪で暮らしている今、神山をどのように見ていますか?
粟飯原
 神山ってどんなところ?って言われたら、「めっちゃ田舎」。良い枕詞として使っています。友達とIターンの話がでる時は、必ず神山をお薦めしています。今はお正月とお盆、帰れたらGWに帰っています。今の家から実家に帰るとトータル5時間くらいかかるんです。なので移動は“たいそい”なと思うのですが、帰ったらやっぱり実家は良い。大阪に住んでいる姉家族が一緒に帰るタイミングもあり、その時はずっと姪っ子を遊んでいます。神山の友達とも遊びますよ。2024年2月に大阪で開かれたつなプロ報告会も、同級生と再会するきっかけになっています。上分のピザ屋さんやかま屋にも行きました。お店が増えましたよね。過疎が進んでいる時代にこれだけ人が入ってくるのはすごいと思います。

(写真/2024年に大阪で開かれた神山のつなプロ報告会で神山の同級生と再会。真ん中が粟飯原さん)

粟飯原 今度、同窓会開こうと思っているんです。中学校30人の。普通は地元にいる子が旗ふってやるものみたいなのですが、ある日突然思いついたんですよね、同窓会しようって(笑)。遠方に住んでいる子ばかりなので、集めるのが大変です。なので、この前のお盆に同窓会するという告知をみんなにLINEで連絡しました。場所は神領のやまびこ。20人くらいは来てもらいたいです。

粟飯原 神山に帰ろうという気持ちは今のところない、かな。今は大阪の方が生活がしやすいんですよね。でももう少し歳をとったらこのごちゃごちゃが嫌になって、ある日思い立って神山に帰るかもしれないですね(笑)。

 

 

インタビュー・文:大南真理子


質問!まちの外で暮らす先輩にあれこれ聞いてみよう!(中校生)

Q:中学生のうちにしておいた方が良いことはありますか?
粟飯原 世の中にはたくさんの仕事、さまざまな考え方、いろいろな人がいるということをまずは知ることが大切だと思います。今後、進路を決める機会が何度も来ると思いますが、その時に切れるカードを増やして自分で選択肢をつくるための準備をしてほしいと思います。立志式や、中学校の授業で学んだことが、今も私の人生の道標になってくれています。
 

Q:どうして報道関係の仕事に就きたかったのですか?
粟飯原 中学生のころ、暗いニュースが多かったので世の中に明るいニュースを届ける仕事がしたいと考えていました。また、小学校から中学校まで、ずっと放送委員会をしていたので、人に何かを伝えることが好きだったことも理由の一つです。

Q:なぜキャリアコンサルタントの資格を取ろうと思ったのですか?
粟飯原 会社の同僚に、向いてるよと言ってもらったことがきっかけです。その後、自分でもどのような資格なのかを調べて、自分の成長にもつながりかつ、人の為に役立つ資格だと思ったので挑戦しました。

Q:仕事を決めるうえで大切にしたことは何ですか?
粟飯原 面白いかどうかです。ゼロスタートからどんどんスキルアップしていくのが好きなので、いろいろな業界に目を向けました。子どものころの夢とは違った道を歩んでいますが、自分の感覚を信じていきたいと思います。また、今の世の中だからこそできる情報発信の方法もたくさんあるので、この先の人生で一周回って夢が叶うかもしれないなとも思っています。

Q:今の仕事のやりがいは何ですか?
粟飯原 自分の関わり方、アプローチの仕方によって、結果が毎回変わっていくことです。人相手の仕事なので、思い通りに進まないことばかりですが、自分自身をアップデートしていけばいくほどスムーズに進む機会、結果を得る機会が増えていくのが面白いです。自分の頑張り、やる気がダイレクトに数字でわかることもモチベーションにつながっています。

Q:神山で一番好きな場所やものは何ですか?
粟飯原 実家の前の川です。小さいころから家族と泳いでいて、帰省した時にも遊びます。岩から飛び込むのが最高です。奇麗な川の水が見ると、神山に帰ってきたなぁと毎回思います。

 

Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
編集部とりまとめ:大家孝文 

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やままち編集部

やままち編集部は、神山町出身の4名(大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)

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