「まちの外で生きてます」#06 多田誠志さん

なんでも2022年7月13日

やままち編集部

投稿者:やままち編集部

〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・白桃さと美・中川麻畝・海老名和、神山町出身の5名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、徳島市で働いていたり。

「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。

紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。

町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第六回は、阿川出身で今は石井町で暮らす多田誠志さん(42歳)に話を聞きました。

 

生まれてから小学校に入るまでのことを教えてください。

多田 生まれたのは、母親の里の池田町、三好病院で、育ったのは阿川の二ノ宮です。保育園は母の仕事の都合で八万町にある保育園に行くはずだったらしいのですが、2時間泣きっぱなしでクビになりました(笑)。

(写真/母と動物園で。1歳半の頃には、当時野球で全国に名を轟かせていた池田高校の校歌を熱唱していたそうです。)

小学校は阿川小学校。『プロゴルファー猿』という漫画に憧れて、当時はゴルフクラブになりそうな木の根っこを探しに山に入って遊んでいました。あとは川遊びをしたり。

(写真/幼なじみと七五三のお祝いを実家の二ノ宮八幡神社で。いつまでも大事な幼なじみ。)

その時の将来の夢は、警察官だったかな。そんなに深く考えてなかったけど、自転車に乗って敬礼とかしてくれるおまわりさんを見て、えぇ人やなって思っていたので。

(写真/小学5年生、運動会のリレーの一コマ。これまた幼なじみと。担任、堀井正章先生のご指導のおかげでスポーツ万能になる。)

 

―中学時代はどんな少年でしたか?

多田 神山東中学校と神山中学校か選べたのですが、サッカー部があったので神山中学校に行きました。Jリーグが始まる直前くらい、サッカー選手の三浦知良がブラジルから帰ってきたあたりで。その頃にはもう夢は警察官じゃなくて、三浦知良。三浦知良になりたい(笑)。みんなそうだったんじゃないかなぁ。

(写真/膝の怪我との闘いだった中学時代の総体(vs高浦中)。朝、痛みで立ち上がれない日もあったが、それでも大好きなサッカーがしたかった。)

 

僕は、みんなと一緒というのが嫌でしたね(笑)。何か天邪鬼なところがあって。みんなが寮入るなら僕は入らん、みたいな。仲が良い幼なじみも寮に入っていたけど、僕は家から自転車で通学していました。通学途中、小野にある親友の家のおじいちゃん特製のバスケットゴールでバスケをしてから学校に行く毎日。毎日楽しかったです。思春期だったので、ツンケンしてしまっていましたけどね(笑)。部活はサッカー部。僕らの一個上は県でベスト8くらいで、僕らの代はそんなに強くなかったです。でも、雪の中、斎杯という大会で準優勝したこと。あれは嬉しかった。そのおかげで、長袖のユニフォームを買ってもらえたんですよ、僕らは試合で一回も着てないけど(笑)。体育祭も楽しかったし、全部楽しかったですよ。写生大会の時、ベランダの端っこから文化橋とか描くのも楽しかったです。

(写真/体育祭の綱引き。親友(岩丸)と僕だけ何かを見つけ違う方向を見ている。今も大事な親友。)

 

―当時はどんな将来を思い描いていましたか?

多田 立志式の話ね。これは、前の記事を読んでいたので、立志式のことは聞かれるだろうなと思って準備してきましたよ(笑)。今は全員発表だと思うけど、僕の時は代表が発表する形式。担任の先生に呼ばれて「発表せんか」って言われて、初めて原稿用紙3枚を丸暗記しました。三浦知良が大好きすぎたり、心のどこかでは両親のように先生になりたい、そんな気持ちもあったけど、その時ちょうど、織田裕二主演のドラマ『振り返れば奴がいる』を見たんです。外科医のドラマで、それがめちゃくちゃ面白かった。織田裕二がライバルの石黒 賢を助けるシーンがあるんですが、それに感動しすぎて、僕も医者になりたい!って(笑)。それで、立志式の時は医者になりたいって発表しました。その時は本気でなりたかったんです。僕もこうやって親友を助けたい!って。ドラマの織田裕二は、とがっているけど内に秘めるものがあって、それが自分と被ったんでしょうね(笑)。人を助けたいって気持ちももちろんあったし、本当にそのドラマに感動していたので。でも、中学3年の時、中南先生が体育の授業で動脈を切ったら血が……っていう話をして、僕は前列でそれをめちゃくちゃ真剣に聞いていたら、貧血で倒れたんですよ。その時に、外科は無理だと悟りました。外科の道が断たれたということは、僕はもう『振り返れば奴がいる』にはなれないんだなって。初めての挫折でした(笑)。

 

―そんな中学時代を経て、高校生活は?

多田 高校は城北高校。僕らの時は総合選抜制度だった。僕は城東っていう響きが良いなぁって思っていて、母も城東だったので、第一希望は城東で出しました。城北は三番目くらいに書いていて、それで城北になったので、特に志望動機とかはないです(笑)。

神山から出てカルチャーショックというほどのことはなかったけど、神中は同級生が80人くらいで、高校に入ったら480人だったから、何においても一番になれないっていうのは、ショックというか、あぁそうかっていうのは思いましたね。いろんな人がいて、楽しかったですよ。大人になって遊ぶ友達も高校の友達が多いです。

(写真/高校3年生、城北祭。「ヌンチャク」「山嵐」高校時代の音楽との出会いも大きな財産となった。)

 

帰宅部でしたが、学祭の時はバンドをしていて。高校終わりくらいから本格的にやって、大学でもやっていました。当時、スリーピースのバンドがめっちゃ流行っていたんですよ。僕はベース。20年前に戻れるなら、「どうしてギターを選ばんかったんな!」って言ってやりたいです(笑)。Hi-STANDARDがベースボーカルだったのでその影響もありました。僕、歌には結構自信があったんですよ。もしかしたら城北で1番じゃなかったかな。ギターだったら弾き語りができたので、今思ったらギターにすれば良かったなと……(笑)。

 

―高校卒業後の進路について、どのように決めたか教えてください。

多田 やっぱり心のどこかに教員になりたいっていうのがありました。父親も先生で母親も学校の先生で、もう嘘の付きようがないというか。かつ、小学校や中学校の担任の先生で良い先生がいたので、いろいろ寄り道したけど、何となくそこに戻ってくるっていうのは自分でも分かっていたように思います。数学Ⅲと数学Cは苦手でしたが、数学は得意でした。だから数学、算数か。あと絵を描くのが好きだったので美術の先生になるか。それで、一生やったら楽しいかなって考えて、美術に。中3の時の担任、大粟先生が美術だったのもあって、高3の時は中学校の美術の教員を目指していました。高校の美術の先生に相談行った時、鳴門教育大学中学校教員養成課程の美術科だったら、今やっている点描でもいけるってなったので、鳴門教育大学を推薦で受けました。

県外に出たい気持ちもありました。東京の大学にも興味があったけど、美術で行くには、今描いているものでは難しかったんですよね。最終的な決め手は、大好きなばあちゃんが「車買ってあげるけん、徳島におりな」って言ってくれて「ほなおろうかな」ってなりました(笑)。

 

―大学ではどんな思い出がありますか?

多田 大学の時のカルチャーショックといえば、美術科の同級生10人くらいで僕以外、全員女の子だったんです。勉強になりましたね(笑)。「こんなこと言うたら怒られるんじゃ」とか「この子は笑ってくれたのにこの子は笑ってくれん」とか「こんなこと言うたらいかんのじゃ」とか(笑)。根にカッコつけみたいなところがあったんですが、ここでツンケンしててもしょうがないなって。良い経験になったなぁと今では思います。この生活で、今のような性格になったというのは、あるかもしれないです。

(写真/僕以外全員女性だった大学時代。社会を生きていく術を学んだ。)

教育実習では、附属中学校に1ヶ月半くらい。その時に同じ学年・学級に配属されたのが、今の妻です。妻は音楽を専攻していました。実習の時はとにかく一生懸命やるしかないという感じで、毎日疲れてましたね。一番覚えているのは、指導案っていうのを書かなきゃいけないのですが、毎日遅くまで、夜中の2時とかまで学校に残って書いてたんです。ある日、子どもたちが投稿する前に、缶コーヒーを飲もうと思ってふたを開けたものを振ってしまったんですよ。自分では開けた記憶とかなくて(笑)。ワイシャツがコーヒー塗れになったりして、それぐらい疲れていました。でも楽しかった。

(写真/鳴門教育大学時代。スリーピースに憧れた大学時代。Hi-STANDARDやSHORT CIRCUITなどのコピーバンドから始め、三人でオリジナル曲を制作していった。)

 

―社会人になってからのことを教えてください。

多田 一番最初は、美術の臨時教員として富田中学校に赴任しました。僕は担当していたバドミントン部や毎日に全力を出しすぎていて、自分自身のことから逃げていたのかもしれないけど、採用試験の勉強をあまりしなかった。教科が美術っていうのもちょっとネックだったので、臨時の教員を10年くらいしました。12、3校いったんじゃないかな。

今は石井小学校に赴任して2年目ですが、その前は、広野小学校で1年、神領小学校で5年。神領に赴任してすぐに大南さんが神山のことをプレゼンしにきてくれたんです。校内研修の時間に。あれを聞けたのはすごく価値がありました。今、神山がこうなっているとか、アドプトの話とか。僕、石井小学校の前のセブンから石井幼稚園まで、週一回朝の時間に一人でアドプトしているんですよ。神山から学んだことです。ちょっとでも広まったら良いなと思います。

今は石井で家族と住んでいます。自分の地元が神領だったら神領に家を建てていたと思うけど、阿川小学校もないし、阿川の集落や二ノ宮の集落は人が減ってきていて、自分が家庭をもつって考えた時に、子どもが「遊びに行ってきます」って言って遊びに行けるような環境が良いんじゃないかと。悩んだけど。できるだけ、実家に近い石井に家を建てました。実家が神社なので、近い将来、石井の家はうちの次男にでも譲って神山に帰ろうと思っています。

先生をやっていて良かったと思うことは多々ありますよ。一番嬉しいのは、子どもがここまで伸びるだろうって思っていたところを超えてきた時。関われて良かったと思う瞬間です。教えた子が先生になったり、活躍していたり、子どもができて幸せにしていたり、そういうのを聞いたら、先生をやっていて良かったと思います。

 

―今の神山をどんな風に見ていますか?

多田 大学の時に、先生に「神山でいろんなことが起こっているけど、君は神山出身だけど参加しないのか」って言われました。でもその時、バンドとかバイトとか忙しくて、「時間がなくていけません」なんて言っていました。それはちょっと心残りというか。その時から参加していたら、いろんなこと学べていたのになぁと思うこともあります。

これは人それぞれですが、神山の人間って神山が好きなんだと思います。僕は、夏に神山に帰ったら川の浅瀬で上を向きながら耳までつけて寝るんです。そしたら、世界の音が消えてめっちゃ気持ち良い。今でもそう。町が変わろうが変わるまいが、神山が好きなんですよね。新しい店ができたらご飯を食べにいったりもするけど、結局山とか川とかが好きで……。神山の友達と神山でこういう風なことが起きているなどという話になっても、肯定とか否定とかじゃなく「そうなんじゃ」って感じ。離れてみたら分かりますよね、神山の良さって。市内の高校行っても、泳ぎにいくのは神山の川。「えぇでぇ神山」ってみんなが言ってくれてそこで再認識していました。こっちは、神山は田舎だと思っている部分があったけど、でも今振り返ってみたら、そう思っていたことも恥ずかしいなと思いますね。

神山で赴任していた時は、学校の教育課程でいろんなことをさせてもらいました。神山以外の子にもこういう経験してほしいと思うこともあるし、今もいろんなアイデアが残っています。特に、KMS(神山メイカースペース)で阿部さんや寺田さん、本橋さんとものづくりしたのは、面白かった。堀井先生や海老名先生も前向きで、そういうエネルギーを受けながら楽しいことをどんどん入れていくみたいな感じも良かった。城西高校と一緒に、作品をつくるために木を伐採するところからしたこともありましたね。神山校の生徒と一緒に小学5・6年生と切り倒した木を人力で道路まで引っ張り出して。伐採した木を一年乾燥させて卒業制作に使用しました。ぽろっと言ったら周りがどうにかしてくれる。それを実現できるのが、今の神山なのかなと思います。技術的な面に加えて、人が良くて形にしてくれる。前向きに「やってみんで」って言ってしてくれるんです。神領で5年いて、「できません」って言われたことないんですよ。どこかからお金を出してくれたり、ボランティアで頑張ってくれたり。本当に“人”ですよね。

 

―これからの目標や夢はありますか?

多田 特別なことはないですね。でも今、教員としてステージが変わるところにきているので、これまでと違った視点を持って、もっと力をつけて神山に帰りたいと思っています。あとは、これまで通り目の前のことを一生懸命するっていうくらいかな。

インタビュー・文:大南真理子


質問!まちの外で暮らす先輩にあれこれ聞いてみよう!

Q: 子どもと関わる中で大切にしていることは何ですか。(大学生)

多田 自立につなげてあげることです。

Q:教師をしていて良かったと思った場面はありますか。(大学生)

多田 成長の瞬間に立ち会えた時です。

Q:将来の夢を叶えるために大切なことは何ですか。(大学生)

多田 「最大限の努力」「仲間がいること」「人とのつながり」です。

Q:転職する人も多い中で教師を続けられている理由は何ですか。(大学生)

多田 これほど多くの夢と関われる仕事はないと思っているからです。

Q:どのように仕事とプライベートの両立をしていますか。(大学生)

多田 自分の時間も大切にすることで仕事と家庭を両立できていると思います。妻に感謝しています。

Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
デザイン:白桃さと美
編集部とりまとめ:大家孝文

やままち編集部

やままち編集部

やままち編集部は、神山町出身の5名(大家孝文・大南真理子・白桃里美・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)

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