「まちの外で生きてます」#16 福原博充さん

なんでも2024年3月15日

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投稿者:やままち編集部

〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和、神山町出身の4名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、徳島市で働いていたり。

「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。

紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。

町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第十六回は、阿川出身で今は徳島市で暮らす福原博充さん(44歳)に話を聞きました。


―幼少期はどんな子どもでしたか。
福原 阿川の福原で生まれました。阿川小学校に通っていた当時、同級生は19人。近所にも何人か同級生がいたし、年上の人もいたので、遊ぶときは皆で遊んでいました。結構、やんちゃで親は大変だったかもしれないですね(笑)。夏は基本、川で遊んでいました。家の近くに川があったので、土曜日3時間の授業が終わったらすぐに行っていました。あとは山を駆け回ったり、野良犬を追いかけたり(笑)。山を越えて鬼籠野まで行ったこともありましたよ。放課後は帰るギリギリまでサッカーや野球をして、外で遊ぶことが多かったです。

(写真/小学生のころは川遊びばかり。)

福原 小学4年生にからはスポーツ少年団の駅伝に参加。それが後に、僕自身が陸上や駅伝に携わる第一歩だったかもしれないですね、今思い返すと。昔は半強制みたいな感じで皆が駅伝に参加していました。結構ガチで、他のチームには負けたくみない!みたいな…。

(写真/小学4年生で始めたスポーツ少年団。写真は駅伝大会。)

(写真/阿川小学校の運動会では楽器の演奏も。)

―中学時代の思い出を教えてください。
福原 僕は神山中学校に進学したのですが、阿川は神山東中学校とどちらか選べました。でも、あまり迷わず、大きい方を選びました。部活の選択肢も違ったんですよね。僕はサッカー部に入り、家が遠かったので寮にも入りました。寮はいろいろ思い出深いけど、幸い僕は楽しかったかな。苦労している人もいたけど、僕は先輩にも可愛いがられる方だったと思います。いろいろ教えてもらえることも多くて。今自分が親になって、やっぱり良かったなぁと思います。規則正しい生活とか、朝起きたら布団を畳む、ご飯を食べたら食器を洗うとかっていうのを日常的にできるので。まぁでも何より寮生活で学んだのは、先輩との関係かな(笑)。

福原 サッカー部に入っていましたが、陸上もしていて、僕は長距離をしていました。陸上はきついけど好きっていう感じ。その入り口の部分を教えてもらったのは、森根先生や田中先生でした。今でも感謝しています。陸上に関して今があるのは、先生のおかげだと自信をもって言えますね。今、徳島駅伝の名西郡の監督をしているので、学校に挨拶に行ったり、中学校の生徒と協力するときなど、当時教えてもらっていた先生に会うこともあります。巡り巡って先生にまた会えるのは嬉しいです。

福原 当時の生活は午後サッカーの部活をして、その後陸上の練習。部活が終わって帰るとほかの生徒より遅いので、寮でも陸上部の夕食の時間をずらしてくれていたんです。学校もそういう支援をすごくしてくれていました。中学3年生のときは県大会で優勝して全国大会に行くくらい。それが一番良い成績。仲間にも恵まれていたな。あのころは陸上に限らず、神中は野球や卓球も強かったです。なので、中学生活は部活が大きかったですね、勉強はあまりしていないので(笑)。立志式で将来の夢を書いたことはあまり覚えてないけど、多分スポーツ関係のこと書いたんだろうな。

(写真/神山中学校駅伝部のメンバーと。このメンバーで県大会で優勝した。)

―中学卒業後、進路はどのように選びましたか。
福原 サッカー部も当時県でベスト8くらいだったから、まぁまぁ強かった。陸上は県で優勝できたというのがあって、高校受験で進路を選ぶときサッカーか陸上の二つで迷いました。でも、どちらがその世界で通用するかを考えたときに、上から数えた方が早い陸上を選んだという感じです。誰かに勧められたのではなく自分で選びました。徳島東工業高校からお誘いがあって、そこに進学を決めました。陸上では強いと知られている学校だったので、ここで自分の力を試したかった。中学校で名を残したような強い子たちがめっちゃいましたね。一緒に優勝争いをしたような子たちが集まっていて、日々レギュラー争いで熾烈な戦い。

福原 当時は徳島市内に下宿。もともと寮に入っていたので、神山や親元を離れる寂しさみたいなのは一切なかったです。僕が高校1年のときに大学1年の姉がいたんですよ。だから、姉と一緒に二人で暮らしていました。姉は鳴門教育大学だったのですが、僕の陸上の練習場所が田宮だったので、僕優先で佐古駅の近くに。姉が全部ご飯もつくってくれていました。今考えたらすごいですよね、弁当もつくってくれて。大学生で遊びたいときもあっただろうし、飲み会もあっただろうけど、そのなかでほとんどご飯をつくってくれた。なかなかできないですよ。だから感謝しているんです、直接伝えたことはないけど。恵まれた環境で陸上に打ち込めたのは、そういう家族の応援があったからです。

福原 嫌になったとか、もうやめたいと思うことはなかったです。楽しかったというより、もっとこうしよう、あぁしようという気持ちが優っていた。多分、洗脳されていたんだと思うけど(笑)。四国で一番をとるような部で、そこにいる以上は県で1位は当たり前。そういうなかで日々過ごしていたので、やめたいとかそういう感情より、やらなきゃという気持ちが強かったです。先輩たちが築いてきた成績を守らなければという責任感。そのなかで成功体験があって、それが見えないところの楽しさといえるかもしれません。人生をマラソンに例えることがありますが、本当にそうだと思う。自分が目標とするタイムに対して、今どういう立ち位置にいるか、それを達成するために何が足りないのかを陸上では考えます。仕事でも同じですよね。陸上部で無意識にやってきたことが、大人になった今の仕事にも生かされているかもしれません。でも休みの日も練習ばかりだったので、今考えたらもっと遊んでいたら良かったとは思います(笑)。そういうがむしゃらにやっていた時代の仲間は、本当にかけがえのない存在。恩師もそうです。その時その時、恩師に出会わなければ今の自分はない。指導者によってタイムが変わったりしますから。巡り合わせや人との出会いにも感謝しています。

(写真/徳島東工業高校でも陸上を続け、全国大会で5位入賞。)

福原 陸上で高校を選んだこともあって、やはり卒業後の進路もその道で、と思うようになったのは高校2年生ぐらいですかね。自分がどの辺まで通用するかということが分かってきて。高校卒業時には、大学で陸上をするか、実業団で陸上をするかの選択肢。僕は実業団を選び大塚製薬に入りました。大学に入って箱根駅伝を目指す選択肢もあったのですが、今ほど箱根駅伝も盛り上がっている感じではなかったんですよね。レベルが高いのは大学より実業団というイメージがあったし、給料ももらえるので実業団を選びました。当時、大塚製薬には地元出身で日の丸をつけるような選手もいたので、そういうことも決め手に。

実業団の選手時代はどんな生活でしたか。
福原 鳴門市内に陸上部の寮があり、今度はそこで生活を始めました。選手時代の生活は、だいたい朝6時くらいに集合して朝練習。大塚製薬の陸上部の場合はいろんな部署に出向という形で配属はされている状態です。なので、試験をしたりデスクワークをしたり通常の業務を9時から3時ころまで行います。そして3時からまた陸上の練習。部活みたいな感じですね。夏や冬には合宿も。夏なら暑いので涼しい長野の高原や北海道に。逆に冬は奄美大島や沖縄に行きます。合宿中はずっと走り続けます。

福原 選手を引退する年齢は人それぞれ。確か僕は26歳のころ。陸上部ではあまり結果が出せず、新しく入ってくる選手に押し出されるかたちで、引退になりました。そのあとは、普通の仕事って言ったらおかしいけど、ほかの社員と同じ業務をするようになりました。今は環境推進室という部署にいます。会社の方針として、地球環境への配慮としてどのような取り組みを行うかを定めていくような部署です。社内では人材育成や組織マネジメントの研修があり、その考え方は陸上で若い選手を指導するときにも役立っています。実業団としての陸上の活動は終わりましたが、徳島駅伝などで陸上の活動は続いています。名西郡の監督になって2年目。今は神山の子が減ってしまったので寂しいです。地元の子が出ていたら、神山の人も皆応援してくれるじゃないですか。

(写真/現在は大塚製薬に勤務。徳島県主催のイベントなどで自社の環境活動について講演も行う。)

福原 今でも神山にはたまに帰ります。そのときは神領のやまびこに行ったり、神山温泉に子どもを連れて行ったり……。年に1、2回、駅伝関係で神山に帰ることもあります。中学校への挨拶で新校舎にも行きました。前の校舎ではなくなったのが少し寂しいけど。神山は今いろいろやっていますよね。いろんなものを取り入れて、多様性といわれるようなところで外国の人が多かったり、柔軟なイメージ。それがおもしろいんじゃないでしょうか。

福原さんの今の夢は何ですか。
福原 小学校の陸上教室に行ったり、中学校の練習を見にいく回数がここ数年増えてきています。教えている子のなかから県を代表するようなランナーが出てきているので、そういう子がどんどん出てきてほしいかな。特に神山から出てきてほしい! 神山も去年から部活終わりに陸上教室を週に2回くらいしているんです。そこに中学1年の子が10人くらい来てくれているので、ちょっとずつ盛り上がって神山からもランナーが増えてほしいと思っています。陸上だけでなく、部活やスポーツで神山が活気づけば良いですね。僕にできることは、今までやってきた経験を生かしてできるだけサポートしていくことかな。

(写真/徳島駅伝の名西郡チームの監督に。神山中学校の練習会にも参加している。)

 

インタビュー・文:大南真理子


質問!まちの外で暮らす先輩にあれこれ聞いてみよう!(大学生)

Q:神山で学生生活を送って良かったなと思うことはありますか?あるなら、どんなことですか?
福原 すぐに遊べる自然が近くにあったことです。神山で生活する皆さんは当たり前かもしれませんが、市内では特別なものです。

Q:私は飽き性で継続することが苦手なので、陸上を継続されていてすごいなと思いました。継続のコツは何ですか?
福原 陸上が好きだったことが一番です。好きだったから厳しい練習も続けられました。その結果、目標の達成や自己ベストにつながる。その繰り返しです。まずは好きなことを探してください。好きでも良いことばかりではないので、少しの我慢も必要です。それと、高い目標も大事ですが、少し頑張れば達成できそうな目標を立てることも継続できるコツかもしれません。

Q:どんなことが仕事のモチベーションになっていますか?
福原 仕事の成果が出て会社に貢献できたと感じたときです。あと、仕事は一人でできるものではないので、チームの皆と力を合わせて何かを成し遂げたり、まわりの人からありがとう、と感謝される仕事をすることです。

Q:仕事の目標や今後やりたいことはありますか?
福原 仕事でやりたいことは、チームメンバーがリーダーになれるような育成です。あと海外にも工場があるので工場を訪問したり現地の人達ともいろんな仕事をしたいです。

Q:神山の学生・後輩たちに一言お願いします。
福原 今しかない学校生活をとにかく楽しんでください。学校生活は楽しいことばかりではないと思いますが、それを乗り越えるとまた一つ成長できますので、「やり遂げる」の精神で何事にもチャレンジしてください。

 

Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
編集部とりまとめ:大家孝文 

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やままち編集部

やままち編集部は、神山町出身の5名(大家孝文・大南真理子・白桃里美・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)

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