「まちの外で生きてます」#18 飯田栞さん

なんでも2024年7月13日

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投稿者:やままち編集部

〝やままち編集部〟です。現メンバーは、大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和、神山町出身の4名。大阪で働いていたり、東京で働いていたり、徳島市で働いていたり。

「まち」で暮らしているけど、心の中には「やま」があります。離れたところからでも神山にかかわれないかな…と思っていたら、ある流れで「広報かみやま」に参画することに。2021年の9月号から、町外にいる若手のインタビューと、その人にむけた学生のQ&Aのシリーズ記事、「まちの外で生きてます」が始まることになりました。

紙面の都合から一部分しか載せられないので、イン神山で、ロングバージョンを公開させてください。

町外で暮らす神山出身者の今を紹介する連載。第十八回は、上分出身で今は京都で暮らす飯田(旧姓:山口)栞さん(32歳)に話を聞きました。

 

―上分で過ごした幼少期の思い出を教えてください。
飯田 私が生まれた上分は、当時の同級生は三人でした。五歳まで通った上分保育所は休園。その後下分保育所に行くようになったのですが、そのときに一人は神領に引っ越したので同級生が二人に。小学校は上分小学校に進学しました。近い学年は男の子ばかり。私は兄がいるのですが、集団下校のときも男の子たちが山に入って遊んでいるのを、私は待ってる、みたいな(笑)。一つのクラスで二学年が一緒に授業をしていました。小学校二年生が終わるとき、上分小学校が休校。三年生から神領小学校に通うようになりました。上分小学校は二年間だったけど、いろいろやらせてもらった記憶があります。今グラフィックデザイナーとして働いていますが、小さいときから絵を描くのが好きでした。裏の山に咲いた花やつくしを描いたり、オリジナルのキャラクターをつくって先生に見せたり、絵本をつくらせてもらったり……。学校の先生でウサギがスーツを着た田中先生やゾウの遠藤先生という架空のオリジナルキャラクターをつくり、それを絵本にしたりしていました。


(写真/夏などは庭にテーブルを出して家族でご飯を食べることが多かった。写真中央が飯田さん)

飯田 二年生のときだったかな、神山アートっていうのが始まったんです。東京の武蔵野美術大学の人たちが来て、一緒に何かをするという行事。上分小学校の全校生徒二十人くらいで、チームに分かれて、先生や学生と一緒に確か龍の絵をちぎり絵でつくりました。それぞれのチームのパネルを最後につなげて完成。楽しかった思い出です。大学の人が地元の人の家に泊まるのですが、毎年うちにも泊まっていました。私が絵を描くのが好きと言ったら、先生や学生が「紙一枚で本ができるよ」「こんな絵の描き方があるよ」とか教えてくれたのも覚えています。


(写真/上分小学校での「神山アート」のイベント)

(写真/小学四年生の夏休みに「神山アート」に参加。当時から絵を描くのが大好きだった飯田さん)

飯田 自分ではおとなしい子どもだった気がするけど、そうでもなかったのかな。そういえば、上分小学校が休校になるとき、音楽や楽器ができる先生が三人いて、生徒一人一人に曲をつくってくれたんです。今考えたらめっちゃすごいことですよね。そのときの私の曲、そんなにおとなしい感じの曲ではなかったかな(笑)。神領小学校卒業時には、他校も統合されて一学年三十人いないくらいに。そのうち女の子は十人。最初は人見知りもあったけど、みんなが声をかけてくれたりしたので、割とすぐに仲良くなれました。同性の友達が増えて、遊びの幅が広がった記憶がありますね。みんなでダンスをして遊んだりしました。

(写真/上分小学校が休校するときに先生が生徒一人一人につくってくれた曲。今でもCDは実家に)

―中学校・高校とどのように進路を選んでいきましたか。
飯田 神山中学校に入学すると、消去法で卓球部に入りました。部活は卓球部かバレー部かだったのですが、球技は苦手(笑)。中学時代も美術の授業が好きでしたね。宿題で毎週デッサンっていうのがあり、それが好きで。先生が見て宿題のデッサンを見て金・銀のシールを貼ってくれるんですが、結構いつももらえていました。絵が好きだったけど、絵では生活ができないだろうとは思っていましたね。中学校の立志式で将来の夢を書いたときは、“デザイン系の何か”と書いた気がします。はっきりは分からないけど、何かつくる仕事。

(写真/神山中学三年生のときの神中祭での一枚)

飯田 進路は、やはりデザインをやりたかったので、徳島工業高校(現・徳島科学技術高校)の工業デザイン科を選びました。工業系のデザインがやりたいという気持ちがありました。当時、二つ上の兄が市内で下宿して徳島東工業高校に通っていたこともあり、私も市内で一緒に住んで通っていました。神山から離れて暮らし始めたのですが、あるときふと、実家で暮らす日数と市内で暮らす日数を比べたことがあって、それでもう実家におる日数の方が少ないんやなって思ったら悲しくなった記憶があります(笑)。なので、毎週末、親に迎えに来てもらって神山に帰っていました。神山に帰っても、特に外に出たりというわけではないのですが、家族といる方が楽しかったです。市内でいるとご飯の準備も自分でやらなきゃいけないのも大変だったし。

飯田 工業デザイン科では、製図やレタリング、PCでフォトショップを使うほか、美術系の授業があり、デザインの入り口のような感じの授業が多かったです。デザインの授業はどれも楽しかった。むしろもっと真面目にやっていたら良かったと思うくらい(笑)。1クラスなので四十人くらい。最終的に三つのコースに分かれるのですが、一年生のときはコースが決まっていなくて、工業デザイン・建築・土木の三つの基礎授業をローテーションでやります。そのときは、早くデザインの勉強したい!と思っていました。

飯田 高校を卒業する際も、デザインをしたい気持ちは変わらなかった。でも勉強が好きじゃなかったので、大学も候補としてはあったけど違うなぁと……。最終的には、大阪市立デザイン教育研究所に決めました。少人数で、プロジェクトに合わせてチームで活動したり提案したりする授業が多かった印象。影絵をつくるという課題のときには、みんなで図書館に行って絵本を選んでこの話にしようと話し合ったり、動物園のポスターを提案したり、企業とコラボレートするような、より実践的なものづくりを学びました。そのほかは、個人でイラストレーターやフォトショップの技術を上げることももちろん勉強しました。

 

(写真/専門学校時代の友人とは今も仲良し。神山にも遊びに来てくれました)

―デザインとどのように関わりながら暮らしていますか?
飯田 二年間専門学校で学んだ後、大阪のデザイン事務所に就職。赤ちゃん向けのおもちゃのパッケージやチラシをつくる会社でした。授業とは違って仕事になるとちょっとギャップもありました。それまでは自由に発想して良いというところが多かったし、売るためにという意識はあまりなかったけれど、その辺が一気にシビアに。大変だったけど、まわりも優しい人が多かったので、何とか楽しくできていました。

飯田 八年くらい働いたころ、コロナで会社もちょっと縮小気味に。結婚を決めたこともあり、それをきっかけに京都に引っ越して新しい仕事を見つけようと考えました。今のデザイン事務所の業務は結構広くて、食品のチラシや学校案内の冊子、駅の広告などのほか、ウェブサイトの作成など、いろいろやらせてもらっています。ウェブサイトはそれまでやったことがなかったので、教えてもらいながら一から始めました。今、三年くらい経ち、できることは増えてきたように感じますね。やりがいでいえば、駅看板などで自分のデザインを日常で見ることが増えました。そういうのを見ると嬉しいです。
デザインの仕事と一口に言っても、いろいろあるので飽きたりすることはありません。ものが同じでもクライアントや業種など内容が全然違います。その分、知らないといけないことがたくさんあるなぁと感じます。

―京都から見て、今の神山はどのように見えていますか?
飯田 神山へは長い休みのときは帰るようにしています。神山の変化については、すごい良いものだと、ポジティブに捉えています。実家は今両親が住んでいるのですが、昔から近所の人が集まることが多かった家です。最近は、家族LINEに、移住した人を含め近所の人と集まってご飯を食べているところとか、BBQしている楽しそうな写真が送られてきます。私がまだ会ったことない人もいるのですが、両親や身近な人が楽しそうにしているのが良いなと思っています。なじんでる感じがしていて。楽しそうで、私も早く行きたい!って思いながら見ています(笑)。鮎喰川コモンは母が働いていたりしたので、行かせてもらいましたが、母自身が楽しそうだったし、私もこんなのが近所にあったら良いなと思いました。2月に大阪で開催されたつなプロ報告会では、今神山でこういうことが起こっているなど、私は親から聞くぐらいしかなかったのですが、やっている人自身から話を聞けたのが良かったです。もっと聞きたかったくらい。

飯田 今振り返っても、自分が育ってきた環境はすごく良かった。自然が多いところや、今でも実家に帰ると、近所の人が「おかえり」と言ってくれるところが好きです。私も子どもができたら、神山での時間を味わってほしいと思っています。


(写真/二年前の飯田さんの結婚式では、飯田さんのお父さんと同級生のお父さんに神山杉を用意してもらい席札を制作。飯田さんが文字の焼き入れを行った)

―今からやってみたいことはありますか?
飯田
 今思い浮かぶのは、車の運転が上手くなりたい(笑)。去年車を買ったんです。それまで運転に苦手意識があって、大阪では使うことないし、乗ってもいなかったのですが、今住んでいるところは車あった方が便利なところ。いつか自分で運転して神山へ帰れるようになったら良いなと思います。

 

インタビュー・文:大南真理子


質問!まちの外で暮らす先輩にあれこれ聞いてみよう!(中学生)

Q: 絵を好きになったきっかけは何ですか。
飯田 それが、分からないんです。気付いたら好きなこと、興味のあることになっていました。明確な理由はなくても、絵を描くことが"何となく"楽しいと感じていたのかもしれません。

Q: 進路を決めるときに不安な気持ちはありましたか。
飯田 ありませんでした。"何となく"好きなぐらいではあったんですけどね。詳しくは分からないけど楽しそう、楽しいが勝っていたんですかね。 意外とデザインは身近にあふれていて面白いですよ。

Q:子どものころにやっていたことで、今の仕事につながっていることはありますか。
飯田 ないですかね。興味をもったものに没入できる性格だったらもっといろんな知識や経験を得られていたかなとは思います。

Q: デザインの仕事をしていて一番楽しかったことと、一番苦しかったことは何ですか。
飯田 今のところ基本的には楽しいです。褒めてもらえると嬉しいです。かといって簡単に思うようなデザインができている訳ではなく、日々「うーん、こうかな?」「なんか違うかな?」と考えることばかりです。苦しんでいます。いろんな資料を見たり、上司に意見をもらったり、自分の考えだけに凝り固まらないように心掛けるようにしています。

Q:生まれ変わっても同じ仕事を選びますか。ほかにやってみたい仕事はありますか。
飯田 生まれ変わったら……お花屋さんとたこ焼き屋さんはやってみたいです。やる気と楽しむ気持ちをもって取り組みたいですね。 いや、やっぱり生まれ変わるなら人じゃなくても良いかもしれません。

Q: いつか神山で仕事をしたいという気持ちはありますか。また、これから神山とどのように関わっていきたいですか。
飯田 うーん、考えたことはないですね。私にとっては心が落ち着く、のんびりできる場所なので。今後どう関われるかは分からないですが、変わらずそう思える場所ではあるかなと思っています。

Q: 今の生きがいは何ですか。
飯田 家族です。大切な人がいるのは心強いです。いろんな人に会ったり、いろんな経験をしてみたりして分かることだらけなので、何があっても日々を重ねることは面白いなと感じています。

 

Q&Aとりまとめ:中川麻畝・海老名和
編集部とりまとめ:大家孝文 

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やままち編集部

やままち編集部は、神山町出身の4名(大家孝文・大南真理子・中川麻畝・海老名和)からなる編集部。「遠くで暮らしていても、神山にかかわることが出来れば」という想いから、「広報かみやま」で連載「まちの外で生きてます」の連載を企画・制作しています。(2021年夏より)

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コメント一覧

  • (ムサビの)神山アートに私も何回か行きました。 父上さま、母上さまも、お元気でなにより!

    2024年7月14日 10:18 | 河野公雄(ニコライ)

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