かみやまの娘たち vol.38 神山で聞く「アート」という言葉にはぬくもりがある。
なんでも2020年8月21日
ここ徳島県・神山町は、
多様な人がすまい・訪ねる、山あいの美しいまち。
この町に移り住んできた、
還ってきた女性たちの目に、
日々の仕事や暮らしを通じて映っているものは?
彼女たちが出会う、人・景色・言葉を辿りながら、
冒険と日常のはじまりを、かみやまの娘たちと一緒に。
工藤桂子さん(NPO法人グリーンバレー)
「ほら、あそこにアートの作品が置いてあるけん」
「こないだアーティストあの子が来とったんよ」
神山の人たちが話す「アート」や「アーティスト」という言葉の響きは、親しい人を呼ぶ声みたいにあったかい。そこに映し出されているのは、神山アーティスト・イン・レジデンス(以下、KAIR)によってつむがれてきた、神山のまちとアートの関係性そのものなのだろうと思います。
KAIRは、1999年からはじまった国際的なアート・プロジェクト。まちの人たちは国内外から来るアーティストたちを迎え入れ、ときには作品制作のサポートをしてきました。
こうした、まちの人とアーティストの関係を支えてきたのが、KAIRプログラム・ディレクターの工藤桂子さん。「取材、得意じゃないから避けていたんですよ」と言われて、ちょっとどぎまぎしながら向かいの席に腰をおろしました。
ハローワークの求人情報に、
ピンとくるものを感じて
高校時代にアメリカ留学していた工藤さんは、そのまま大学に進学。卒業後もアメリカで働いていたそうです。帰国後は、生まれ故郷の徳島に戻り、英会話学校の講師などを経験。たまたま、ハローワークのウェブサイトで「ピンとくる」求人情報を見つけたそうです。
業種は「町おこし」、仕事内容は「指定管理業務」、団体名は「NPO法人グリーンバレー」……。工藤さんのアンテナは、このわずかな情報のどこに反応したのでしょう?
「同じ徳島県内に住んでいても、神山町のほうには来たことはなかったんですけど、その求人票を見たらなんかこうピンときて。インターネットで調べると、大南信也さん(当時のグリーンバレー理事長)が、KAIRについて書いているページがいくつか見つかりました。それで、『あ、新聞で見たことがあるあの町のことだ』と気がついて。
面白そうなことをやっているなって思いました。国際的なアート・プロジェクトをやっているし、海外とつながる職場なのかな?という期待もあったと思いますね。
面接の打ち合わせの電話をすると、『場所がわからないと思うから道の駅まで来てください。僕は軽トラで迎えにいきます』って言われてね。『軽トラ、たくさんあるからわからないと思うけど、でもわかると思います』っていうような感じで(笑)。
面接では、課題の英文を翻訳したのですが、待っている間に面接官の3人がきゃっきゃっ、きゃっきゃと雑談をはじめてですね。おっちゃんたちのあのノリで(笑)。人生で、そう何度も就職面接を受けたわけじゃなかったけど『こんな感じもアリなんだ……』っていうのが、すごく印象的でした。
『なんでこの人たち、こんなに楽しそうなんだろう?』って」
ぽーんと投げられたKAIRの仕事を
がっつり受け取ってしまった
当初は、グリーンバレーに関わる事務全般を担っていた工藤さん。2年目からは、KAIRに関する業務も中心的に担うことになります。その背景にあったのがKAIRの運営体制の変化です。
もともと、KAIR は町役場とグリーンバレー、KAIR実行委員会が協働して運営されていたのですが、2008年度からは町役場が事務局業務から部分的に抜けることに。会計や事務処理なども、グリーンバレーが担当することになったのです。
「グリーンバレーとKAIR実行委員会はアーティストのサポートや運営のほうをやっていたのですが、『これからは事務処理もグリーンバレーでやってください』と、ぽーんと投げられたんですね。
2008年度は最低限の予算しかない状態で引き継がれたので、ほんとにど根性でやらないといけなくて。さらに、同時期にKAIR実行委員会の中心にいた人たち数人が突然手を引いてしまったんですよ。
もう、わけがわからない状態ですよね。
まだ仕事をはじめて1年ほどで、『ちょっと待って!そんなこと言われても!』って思いました。だけど、本人たちがそう言うならまあしょうがない。彼ら以外に、相談できる人を見つけながらやっていくようになりました。
あれから今まで、なんとか続けて来られたのは、もともと地元の方が中心になって、自分たちでつくることを小さくやってきたベースがあったからだと思います」
アーティスト側と受け入れ側、
双方に長期的な成果がある
KAIRは約3カ月の滞在型プログラムです。毎年8月に国内外から3〜5名のアーティストがやってきて作品を制作。10月下旬にはその作品を発表する展覧会が開かれます。この時期に神山を訪ねると「もう、アート見に行ったん?」とあちこちで声をかけられます。町内外にひらかれた展覧会だけど、すっかり“まちのお祭り”として根付いているのを感じます。
まちの日常になだらかにつながる展示空間。暮らしの事物を用いて創られた作品たち。アーティストたちによる制作そのものが、神山とアートを結ぶいとなみになっているようにさえ思えてきます。
「KAIRは公募の事業を柱としながら、いくつかの新しいプログラムが生まれています。たとえば、滞在費は自費ですが、制作するアーティストを無償でサポートするレジデンス『ベッド&スタジオ プログラム』もそのひとつです。
毎年、KAIRには100人以上の応募があるのですが、選ばれるのは3〜5人だけ。KAIRに参加できなくても、自国の奨学金や助成金で滞在制作をしたいという人がちょっとずつ増えてきたので、それに対応するかたちで2008年にはじまりました。
『ベッド&スタジオ プログラム』には、毎年5〜8名が参加してくれています。彼らには作品を発表する義務はありませんが、自主的になんらかの形で発表の場を企画する人はけっこう多い。神山で過ごすうちに、まちのいろんな人たちと知り合いになるし、『ここで何を考えてどんなことをしてきたのかを見てもらいたい』って気持ちになるみたいです。
長期的な成果の部分を知りたくて、2017年にはじめたのが『リターン・アーティストプログラム』。KAIRを経験したアーティストに、一定期間(5年以上)を置いてもう一度来てもらうプログラムです。私自身も、大粟山(おおあわやま)という場所に作品をつくりはじめた初期のアーティストや、おっちゃんたちのうわさに聞くアーティストたちが、KAIRに参加した後、どんな風に活動していたのか、今はKAIRをどう思っているのかを直接聞いてみたくて。
KAIRは学芸員や専門家がいない状態で20年以上続けているので、参加アーティスト一人ひとりが非常に重要な役割をしています。自分自身、彼らから学んでいることはすごく多いので、彼らの専門的な知見やフィードバックをみんなで共有できる場もつくろうとしています」
小さな小さな積み重ねが
変化を生み出していった
インタビューのなかで、工藤さんは何度も「小さな小さな積み重ね」という言葉を口にしていました。どーんと大きなプログラムを立ち上げて、ばーんと大きな変化を起こしたのではなく、ずーっとつづけられる地に足のついた取り組みが、じわじわとまちとアート、まちの人とアーティストの関係を変えてきたのだというように。
そのプロセスについて、工藤さんの話を聞いてみたいと思います。
「面白いことに、KAIRやベッド&スタジオ プログラムに参加したアーティストの多くは、2回、3回、4回とけっこうな頻度で再訪してくれています。交通アクセスが不便な神山に何度も訪れる“常連アーティスト”がたくさんいることも、KAIRの特徴のひとつかなと思います。
長期的に関わってくれているアーティストは、来るたびに神山の違う部分が見えてきたり、新たに掘り下げてみたいところが見えてきたりすることもあるようです。ただ単に、ここにきて自分の思うものをつくりたいというだけではなくて、まちと一緒に面白いものをつくりたいということが、変化の部分なのかなと思いますね。
そこで、『リターン・アーティストプログラム』と同時にはじめたのが、再訪するアーティストたちとの対話から生まれた『KAIR×ABCDEF』。伝統工芸や伝統文化の継承や提案など、世界に向けた神山や徳島の文化の発信を視野に入れながら、アートとコラボレーションします。アーティストも運営側も、地域コミュニティへの思いや関わりがより深いものになる長期的な共同プロジェクトです。
AがArt、BはBase、CがCulture、DがDocumentation、EがEducation、FはFoodなのですが、それぞれのアーティストにはいずれかのテーマを掘り下げて、作品制作やアーティストトークをしてもらっています。神山で暮らす人たち、徳島のつくり手の間で新しいプロジェクトも生まれていますね。
そういう面白いつながり方が見えてきたのは、ここ数年の出来事です。20年かけて、小さく小さく積み上げてきたことが、少しずつ変化を起こしているのかなと思っています」
アーティストから見た
神山はいま、どんなまちだろう?
KAIRがはじまった頃と比べると、神山はずいぶん変化したように思います。1999年にはなかったコンビニもあるし、お店も増えたし、移住する若い人も増えました。サテライトオフィスもあって「ITのまち」というイメージも広まっています。神山にリターンするアーティストたちの目には、神山の変化はどんなふうに映っているのでしょうか。
『アーティストとして見る神山は変わっていないんだ』って。
2018年に来たリターン・アーティストは、10年前(2008年)のKAIRに参加した人でした。50代半ばで、80〜90年代にいろんな国を見てきた経験があって。近年、神山に関する記事を通して、新しいビジネスが入ってきたり、移住者が増えたりしてまちが変化していることを知って『どうしよう、私たちの記憶の神山が失われてしまっていたら』と心配していたようなんです。
でも、来てみるとまったく同じだって言っていました。たしかに、以前より多くの若い人たちを町のあちこちで見かけるし、生活のための選択肢は増えたけれど『制作する場所としての神山は変わっていないよ』って。
たしかにそうだよな、と思いました。お店ができたからって、新しい建物ができたからって、まちの人がいきなり変わるわけじゃない。彼らの視点を通じて、ものを見せられたり、考えるきかっけになることってあるんだろうな、と。
移住したときに、まちの人たちにあたたかく迎え入れてもらった若い人たちは、次に来る人たちに同じようにフレンドリーに接している。そういうコミュニティがあることこそ、アーティストにとって大切な制作環境なんだと思います。
同時に、どちらかというとアーティストに寄り添うようなかたちでやってきたのかなと思います。彼らには、まち全体にあたたかく迎え入れてもらえるという感覚があることが、滞在しやすさ、制作しやすさになっているんじゃないかな」
ほどよい距離感の友人として
もう少しそばで見ていたい
気がつけばもう10年以上、KAIRに関わってきた工藤さん。「働きはじめたときには、まさかこんなに長くいることになるとは思っていなかった」と言います。もちろん、大変なこともあるのだろうけど、まちの人たちやアーティストとのエピソードを話すときの工藤さんは、とても楽しそうです。最後に、工藤さんにとってアーティストってどういう存在なのかを聞かせていただきました。
「仕事を一緒にしている人っていうか、友だちですよね。友だちみたいに日常的などうでもいい話をしながら、仕事のことを進めていく関係性でやっているような気がします。
彼らと対話していくなかで『あ、こういう考え方なんだ』と思ったり、『制作に関してこういうことを求められるんだ』と体験を通じて学んでいったりして。彼らのものの見方が、作品のなかにどんな風に反映されていくのかをいつも一番近くで見ています。
KAIR の3カ月間は、アーティストとコアなスタッフで『すごい結束したチームを組んで過ごしている』という感じがあります。だからこそ、アーティストたちがリターンするというところにつながっているんじゃないかな、とも思う。
それに、毎年、アーティストとまちの人の間で新しい関係性が生まれるんですよ。直接的に制作には関わらなくても、仲良くなった隣の畑のおじさんがアーティストのメンタルサポートをしているように感じることもあって。関わってくれる人も、毎回ちょっとずつ変わっていくしね。
KAIRは20年以上やっているけれど、いまだにまちのなかには『え、こんなんしよったん?』っていう声もあります。『名前を聞いたことくらいはあるのでは……』と思ったりもするけど、それはそれでいいだろうなと思っていて。
タイミングが合えば一緒に時間を過ごすこともあるし、次の年も続いたらいいだろうし、続かなかったらまた何年後かになるかもしれない。ある意味、それも面白い部分なのかなって思います。KAIRが生きたものとして動いているというか、起こっているというようなところかもしれません。
この1〜2年の動きとしては、海外の小さい村のアーティスト・イン・レジデンスとのつながりが生まれたことかな。フランスや中国の人口2000人くらいの村から『一緒に何かしませんか?』と話がきたり。『そことつながるとどういうことが起きるのかな?』と思っています。
アートって、他の分野のものよりも成果や価値が見えにくいところはあると思います。だけど、この活動もまた、いろんなことが起きている原動力の小さなひとつではあると思う。今はまだ『もうちょっと見てみたいな』という気持ちは続いているかな、と思います」
◆
神山に通うようになって4年、わたしにもいろんな変化が起きているのですが、アートに対する感覚もそのひとつ。作品がつくられていくプロセス、あるいは大粟山にある時を経た作品を見たり。アートを「生きているもの」「変わりうるもの」として捉えられるようになったことが大きいような気がしています。
たまに通うだけのわたしでさえも影響を受けているのだから、きっと神山にいる人たちは、意識していなくてもやっぱり何かは変化しているんじゃないかなと思います。工藤さんが今、アーティスト側と受け入れ側の双方に起きている変化を見ようとしているのは、きっと確かな手応えがあるからなんだろうな。
彼女のなかにある、まだ言葉にしていないことについて、またいつか聞けたら、と思っています。
ライター/杉本恭子(すぎもときょうこ)
大阪府出身、東京経由、京都在住。お坊さん、職人さん、研究者など。人の話をありのままに聴くことから、そこにあるテーマを深めるインタビューに取り組む。本連載は神山つなぐ公社にご相談をいただいてスタート。神山でのパートナー、フォトグラファー・生津勝隆さんとの合い言葉は「行き当たりバッチリ」。
転載元:ウェブマガジン「雛形」
ウェブマガジン「雛形」 かみやまの娘たち (hinagata)
神山に移り住んだり、還ってきた女性たちへのインタビュー・シリーズ「かみやまの娘たち 」。ウェブマガジン「雛形」で全44回にわたり連載された記事をイン神山にも転載させていただきました。
ウェブマガジン「雛形」 かみやまの娘たちの他の記事をみるコメントする
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